ノルマンディー上陸作戦を題材に「歴史のif(もし)」を考えることによって、未来創造のための教訓を得ることができる。今回は、この作戦における革新的な戦術である消耗戦と機動戦の止揚について考えてみたい。これもまた、連合軍の勝利を決定づけた分岐点の1つである。
オーバーロード作戦が
史上最大と言われる理由
戦術面におけるアイゼンハワーの最大の功績は、消耗戦と機動戦をうまく使い分けつつ総合させたことにあると私は見ている。これは、陸海空にわたる史上最大規模の多国籍軍を統率することに他ならず、アイゼンハワーの戦術とリーダーシップの巧みさが連合軍の勝利を決定づけたと言えるだろう。
大きな軍事作戦は時間をかけて綿密に練られることが常である。「オーバーロード〈大君主〉」と連合軍で呼ばれたノルマンディー上陸作戦の策定まで2年2ヵ月が費やされたことはすでに述べた。
だが、作戦の実行の際に最も重要なのは、兵站の確保と初動のインパクトである。
第2次世界大戦における日本軍は作戦偏重で、兵站など後方支援を軽視したことが、悲劇的な結末につながった。一方、真珠湾攻撃は、陰謀説が囁かれてはいるが、太平洋艦隊の隙を巧みに突き日本に勝利をもたらした。兵站と初動が重要なことは、こうした例からも示される。
さて、オーバーロード作戦であるが、これが史上最大と言われる理由の一つは、巨大な規模の人員・物資を動かす兵站面に表れている。
なんといっても、作戦初日だけで13万人、わずか1ヵ月の間に100万人以上もの将兵をイギリスからフランスに上陸させるという前代未聞の大プロジェクトである。それだけに、検討すべき課題は山積みだった。実際、上陸部隊を運ぶ海軍を中心とした作戦には「ネプチューン」という別の作戦名がつけられていたという事実が示すように、精緻な計画の策定と実行が求められたのである。
一方の初動のインパクトであるが、これも、事前の戦略拠点への空爆、未明の空挺部隊の投入から始まって、夜明けの艦砲射撃、そして急襲上陸という一連の流れをほぼ計画どおりに進行させたことが、史上最大と言われる理由の一つと言っていいだろう。
とはいえ、軍事作戦に予想外の事態はつきものである。
最大の誤算は、イギリス第2軍担当の左翼、つまりノルマンディー海岸の東方から内陸部に侵攻して、この地域圏最大の都市であるカーンを当日中に占領し、そのすぐそばにあるカルピコ飛行場を確保する、という任務がまるでうまくいかなかったことにある。
Photo:The National Archives
度重なる侵攻作戦を実行し、空爆で全壊に近いほど破壊し尽くしたカーンを連合軍が落としたのは、Dデイから1ヵ月ものちのことである。先述したように、ドイツ軍の精鋭部隊がカーン付近に集結してきた、という不運もあるとはいえ、こうした事態を招いた一因として、モントゴメリーの慎重すぎる性格が災いした面もある。地上軍を指揮したモントゴメリーは、上陸前には「Dデイ当日にカーンは落とせる」と豪語していたのだが、そうはならなかった。
誰をも魅了する笑顔の持ち主であったアイゼンハワーは、一方で癇癪持ちでもあった。「静」のモントゴメリーに対して、自ら操縦桿を握って飛行体験もあるアイゼンハワーは「動」の人であり、こうした事態に、怒りを隠しきれず、2人の関係は終戦まで尾を引いていく。