『史上最大の決断』を書くにあたって、「実践知リーダー」として、私がまず想定したのが、前回取り上げたイギリス首相チャーチルだった。しかし、ノルマンディー上陸に至る物語りを綴るうちに、それにふさわしい人物がもう1人浮上してきた。中佐から元帥まで、史上最速の昇進を重ねた米国軍人にして、上陸作戦の最高司令官を務め、戦後は第34代アメリカ合衆国大統領となるアイゼンハワーがその人である。

学費不要の軍学校を選んだ庶民の子

偉大な凡人、アイゼンハワードワイト・D・アイゼンハワー

 ドワイト・D・アイゼンハワーは、第二次世界大戦後の米ソ冷戦の緊張が最も高まった1953年から61年まで、2期8年間大統領職を務めている。彼の次に大統領となったジョン・F・ケネディの華やかな影に隠れがちだが、アイゼンハワーの業績は、「第3次世界大戦を防いだ男」として再評価されつつある。アイゼンハワーとはどのような人物だったのだろうか。

偉大な凡人、アイゼンハワー独立宣言への署名(ジョン・トランブル画)
1776年7月4日、フィラデルフィアで独立宣言が採択され、2年後ワシントンが初代大統領に就任した。2ドル紙幣は表面にトーマス・ジェファーソン、裏面にこの絵が描かれている

 ところで、今日7月4日は、アメリカの独立記念日(インディペンデンスデイ)である。ニューヨークの自由の女神が手にする書物には、アメリカの独立宣言が公布された1776年のこの日と、フランス革命記念日である1789年7月14日の日付が記されている。

 ドイツ南部にルーツを持つアイゼンハワーの祖先が、宗教的迫害を逃れて新大陸アメリカに渡ってきたのは、このアメリカの独立宣言よりも約半世紀前の1732年のことである。アイク(アイゼンハワーの愛称)は、カンザス州で代々農業を営む一族の、男ばかり7人兄弟の3番目として、1890年10月14日に生まれた。

 貧しい一家ではあったが、「努力しなければ何も得られない」を信条にする母親は、「溺れたくなければ泳ぎなさい」というような示唆に富む言葉で息子たちを厳しく教育した。歴史と英語の成績が良く、何よりもスポーツが好きだったアイク少年は、大学進学のため学費を稼ごうとすぐ上の兄と地元の工場で働き出した。しかし友人の影響もあって、学費不要の軍学校への進学を決意する。地元選出議員の推薦も受け、トップの成績でウエストポイント陸軍士官学校に入学した。

偉大な凡人、アイゼンハワーフットボール選手時代のアイク

 入学してしばらくはフットボールの花形選手として活躍するも、膝を負傷。フットボールをあきらめきれなかったアイク青年はコーチに転じる。学生の頃からポーカーが得意で、任官の翌年に結婚した花嫁の衣装代をポーカーで稼いだ、という逸話を持つ。

 任官後、軍人としては平々凡々な経歴を重ねていく。第1次世界大戦で欧州派遣軍に手を挙げるもかなわず、代わりに南北戦争の激戦地ゲティスバーグ近郊のキャンプ・コルトで当時の新兵器であった戦車を研究する部隊に配属された。ここでアイクは戦車に関する知識を徹底的に学んだ。

 その後、キャンプ・ミードの戦車学校に移り5歳年長のパットンと出会う。彼らは戦車の研究と実験に没頭するのだが、後々それが生きてくることは、当時は知る由もない。

 士官学校でのアイクの成績は中の上というところで、軍人としての野心も「せめて大佐で退官できれば」という実に平凡なものだった。しかし、凡人に終わると思われたアイゼンハワーの人生は、3人の上司との出会いで大きく変わることになる。