前回は、アイゼンハワーが「実践知リーダー」となるまでの成長過程を描いた。今回は、アイゼンハワーのリーダーシップの能力とはどのようなものだったのか、フロネシスの視点から眺めてみたい。前々回で触れたチャーチルのそれと、何が同じで何が異なるのか。合わせてお読みいただければと思う。
アイゼンハワーとチャーチル
アイゼンハワーの決断とは、いったい何だったのだろう。彼は何をどう考えて、どのように決断したのだろうか。この問いは、なぜ彼が実践知リーダーの名に値するのか、という問いにつながっていく。今回は、「偉大な凡人」アイゼンハワーのリーダーシップについて考察してみたい。
ピーター・ドラッカーはかつて、「カリスマ待望は政治的な集団自殺願望である」と述べた後で、このような指摘をしたことがある。
〈20世紀における建設的な成果は、カリスマ性とは縁のない人たちの手によるものだった。第二次世界大戦で連合軍を勝利に導いた軍人も、抜きんでて有能だがとび抜けて面白味のなかったアイゼンハワーとマーシャルだった〉
なんとも歯に衣着せぬ物言いだが、確かに、シェイクスピア劇の役者のように国民に語りかけたチャーチルのカリスマ(「ダンケルクの精神」を説いた下院演説[1940年6月4日 *1]に顕著に現れている)と比べれば、アイゼンハワーは正反対の存在だったかもしれない。彼のカリスマ性のなさは、軍産複合体(Military-Industrial Complex)への脅威を指摘したことで有名となった退任演説[1961年1月17日]を聞いてみると感じられるかもしれない。
一言で言ってしまえば、アイゼンハワーは、「最も普通ではない状況に置かれた最も普通の人」だったのである。これは、映画「ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断」でアイゼンハワー役を演じた俳優トム・セレックの言葉だ。
戦争の勝敗を左右する要因の一つは、戦略を立て作戦を実行する政治家および軍人のリーダーシップである。国家の存亡と多くの人命に関わる危機的状況に置かれたリーダーシップの姿を見ることができるという点で、ノルマンディー上陸作戦はリーダーシップ研究の格好の素材であると私は思う。
*1 抄訳文は『史上最大の決断』57頁を参照。