また、当時は知識・記憶重視の日本の「詰め込み教育」の限界が指摘された時期でもあった。厳しい受験戦争の弊害として、小中高で校内暴力や若者の自殺が急増した。バブル崩壊後の経済停滞に、当時の政治家・官僚・企業経営者がうまく対応できなかったように見えたことも、知識・記憶重視から「考える力」を養成する教育への転換を求める声の高まりとなった。

 大学は、社会からの要請に応えるために、教育改革に取り組まねばならなくなった。その際に参考となったのが、日本とは逆に「入学するのは簡単だが、卒業は難しい」と言われていた欧米の大学の教育システムだったと思う。

 欧米の大学の教育システムの一般的なイメージは、端的にいえば①少集団のクラスで議論中心の授業②1つ1つの授業で、毎週膨大な資料を読み込む予習を課される。予習をしないと議論に入れない③授業後は、膨大な量の課題(レポート、試験)を課される④成績が悪ければ、容赦なく落第させられる。卒業できない学生も多い、⑤実学的である、というものだ。このシステムを、日本なりにアレンジして導入すれば、企業の代わりに人材育成ができると考えられた。

 筆者が英国で博士号を取得後、17年ぶりに日本の大学に教員として戻った時、そこは筆者の知っている「レジャーランド」ではなかった。欧米的な実学教育の要素が盛り込まれた教育が展開されていた。だが、筆者は日本の大学で欧米的教育を取り入れることの弊害に、次第に気づくことになった。

予想外に「規律」「型」を重視する
欧米の大学教育

 なぜ日本の大学で欧米的教育を導入すると弊害があるのか。それは、欧米の大学での教育が、ザッケローニ監督が選手に課したような「規律」を重視するものだからだ。

 日本人が欧米の大学に留学して、最初にとまどうのは、予想外に厳しい規律を重視する教育が行われていることだろう。欧米の教育には「知識(あるいは記憶)より、自分の考えをしっかり持ち、議論できることを重要視する」という一般的なイメージがある。だから、日本に比べ自由であり、1人1人の学生の個性を重視されると思ってしまう。ところが、実際にはものすごく「型」に拘った、自由も個性もない指導が行われる。