また、経済学ではコースの始めに経済学の分析に不可欠な「数学」を嫌になるくらい徹底的にやらされる。欧米の教育では議論の基礎となる知識を身に着けさせることにかなりの時間を費やしている。学問というのは、勝手に思いついたことを話したり書いたりするものではないという考え方が徹底していた。

欧米の大学教育は、基本的に
「躾」が目的だと気づいた

 英国留学の7年間の間、欧米の大学教育のいろんな面を観てきた。その中で、1つ興味深かったのは、英語を母国語とする「英国人学生」が、学部1回生や修士課程に入った最初の課題である小論文でよく落第点を取ってしまうことだった。英語が母国語なのになぜかと驚くところだが、これは、小論文の「型」を無視して自分の好きなように書いてしまうからである。しかし、英語ができるからといって、スラスラと個性的に書いていても意味がない。大学で教える「型」通りに論旨を展開できていなければ、その小論文はアウトなのである。

 また、筆者が博士課程後期に進んだ直後の、セミナーでの話を紹介したい。アルゼンチンから来た同期生が研究発表を行った。ところが、彼の20分間の研究計画についてのプレゼンテーションが大変だった。「わたしの考えは」「わたしのアイディアは」「わたしの見通しは」と、情熱的に話し続けた。持ち時間の20分を経過したところで、セミナーの担当教授が彼を止めた。「わかった。ところで、君の考えはわかったんだけど、理論とかどういう方法論で調査するとかはどうなっているの?」彼は頭を抱えた。「オー!まだ導入部しかしゃべっていません」。放っておけば、彼は1時間以上、話し続けていただろう。

 こういう、個性的な学生たちに、なんとかかんとか「型」を教えようとする大学教育を受けて、気づいたことがあった。それは、日本でイメージするような「考える力」を伸ばすというより、シンプルに「躾」だということだ。

 欧米の大学には、自国の学生だけでなく、アフリカ、アジア、中東、南米など世界中から留学生が集まってきている。これが、揃いも揃って強烈に「自己主張」をする人たちだ。それは文化、民族性のようなものに加えて、日本のように大学が「大衆化」しておらず、大学に進むこと自体が一握りのエリートだけという国も多いので、「異様に」プライドが高い。だから、学部生でも大学院生でも、大学に入る前から「世界の誰も考えなかった大発見を、既に考えている」みたいに思いこんでいる人も少なくない。日本人からすれば俄かに信じがたい話だが、これは決して大袈裟ではないのである。