山田耕筰の追想。

「当時はまた、三浦環女史が、自転車美人の評判を高くしていた。美校の先生が牛の背で通う同じ上野の山内を、その頃文明開化の尖端であった自転車を、しかも妙齢の美女、環さんが走らせるのだから、評判にならないはずはない。しかし、私たちにとっては、それはいい悪戯の目標でしかなかった。/ある日私たちは山内で、自転車に乗った三浦さんに行き合った。/「それッ!」/と私の目くばせをうけるまでもない。咄嗟に美校と音校の連合軍は、腕を組んで自転車の行く手を遮ってしまった。三浦さんが右へかわそうとすれば、悪童たちはその方へ寄る。左へかわせば左へ追う。スクラムを組んだまま道路を右へ行き、左へ行き、この動く関所は自転車の通行を許さなかった。追い詰められた三浦さんは、とうとう操縦の自由を失って、精養軒わきの浅い空溝へ自転車もろとも落ち込んで終った」(山田耕筰『自伝 若き日の狂詩曲』中公文庫、1996)。

 環もこのときのことを書き残している。

「また上野の音楽学校の男生徒と美術学校の生徒はとても茶目、私のことを『タマちゃん、タマちゃん』と云ってひやかしているうちはよかったのですが、だんだん悪戯が嵩じて、しまいには往来を横に一列になって通せんぼうをする、私がそれをよけて右へ行くと右へ、左へ行くと左へ立ちふさがって、とうとう上野の精養軒のわきの溝の中に、自転車ぐるみ私を落っことして手を叩いて大笑いするのです。憎らしいのなんのって、その悪戯者の中では山田耕筰さんなんかが餓鬼大将だったのです。(略)もっとも先生と云っても私と山田さんとは年が二つしか違わない。いくら女の方が早く大人になるとは云え二つ違いの兄さんなら粋なのだけれど二つ違いの生徒では、手古摺らされるのは当り前だったかも知れませんね」(三浦環、吉本明光、前掲書)。

 『魔風恋風』の小道具は「デートン」という米国製の自転車だが、環が乗っていたのは父親が購入した英国製だったそうだ。いずれにせよ珍しく、大変な評判だったのである。

 環と同世代の志賀直哉(1883-1971)は「自転車」と題した短編にこう書いている。

「その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあった。(略)私の自転車はデイトンという蝦茶がかった赤い塗りのもので、中等科に進んだ時、祖父に強請(せが)んで買ってもらった」(志賀直哉「自転車」『志賀直哉――ちくま日本文学21』所収、2008)。

 米国製デイトンは160円だったという。1900年の1人当たり実質個人消費支出(年間)は124円だから、べらぼうに高価な乗り物だった。環の父親は公証人で、富裕な家庭である。志賀直哉の祖父直道は相馬藩(福島県)出身、廃藩置県後は権知事、相馬家家令(華族の執事)を歴任した。やはり富裕層である。

 環は東京音楽学校へ入学する1900(明治33)年9月、なんと入学直前に父親の勧めで陸軍三等軍医正、藤井善一と結婚していた。しかし、周囲には内密にしていた。

 学部在学中の1903年に日本初のオペラ公演「オルフェオとエウリディーチェ」(グルック作曲、東京音楽学校有志主催)の主演エウリディーチェ役に抜擢され、大いに話題を集める。舞台の数は増え、研究科に進むと弟子も常時40-50人抱えて多忙な音楽家生活を送るようになった。

 しかし、1907年に東京音楽学校助教授に就任すると同時に藤井善一と離婚してしまう。仙台へ転任する藤井が環を連れて行こうとしたのだそうだが、環は音楽家としてそのような夫の要望には応えられなかったわけだ。すでに有名歌手だった環は、新聞のゴシップ欄をにぎわせることになった。

 離婚するとあちこちから結婚してくれという声が集まった。モテモテである。東京音楽学校1年時のピアノの先生だった瀧廉太郎からもプロポーズされて困惑したそうだが、瀧はすぐにドイツへ留学して事なきをえたという(1903年に急逝)。