ぶっちぎりに強いイギリスが進めた弱肉強食の経済とは?

 産業革命で生産力を飛躍的に向上させた産業資本家たちは、「自由放任経済」を求めた。これは競争力を高めた彼らからすれば、当然の要求だ。

 競争力のある国ほど、自由貿易を求める。なぜか? それは自由と平等を、どちらも「平等」を交えて説明すれば、よくわかる。

 まず資本主義社会の自由は、「機会の平等」からくる自由だ。これはランナーでたとえるなら、オリンピック選手も小学生も全員が横一列に並んで、誰にもハンデをつけずに全力で100メートル走をさせるようなものだ。この形だと、個々の力の差がもろに出て、強い人がぶっちぎりで勝利できる。

 これに対して、社会主義社会がめざす平等は「結果の平等」だ。これはみんなで手をつないでゴールするイメージだから、一見とても穏やかでいいものに見える。でも、強い者の自由を大幅に制限している。

 ここまで見れば、当時のイギリスの資本家がどちらを求めたかは明白。当然前者だ。当たり前だが、ボルトやパウエルやカール・ルイスは、僕らと手をつないでゴールインなんてしたくない。

 彼らは僕らをぶっちぎりたいからこそ、日々血の滲むような努力で厳しい練習に耐えてきたんだ。当時のイギリスの産業資本家は、まさにそれに匹敵するほどの競争力を身につけていた。

 彼らは飽くなき努力と探究心で、世界最高の生産力を手に入れた。今、世界で機械化が進んでいるのはイギリスだけ。これは、世界のランナーが100メートル走で10秒を切るかどうかを争ってるなか、イギリスのランナーだけ8秒台で走れるくらい、ぶっちぎりの状況だ。今競争すれば、絶対イギリスが世界ナンバーワンになれる。

 ならばこれ、どう考えてもみんな一斉にヨーイドン、つまり自由放任経済を求める。ここまで力をつけたイギリスに、重商主義みたいな保護貿易は必要ない。むしろ王様に利益を吸われる分、かえってジャマだ。

 時代的にこの18世紀は、イギリスではすでに市民革命が終わり、強い専制君主はいなくなっていた頃だ。その後、強い産業資本が育つまでのワンポイントとして重商主義は続いていたが、もはやそれも不要のようだ。だから産業資本家は自由放任経済を求め、イギリスはここから、本格的な自由競争の時代に突入していく。