総面積の7割を山林、原野が占める南牧村は南牧川とその支流に沿って集落が形成されている。江戸時代は旗本や幕府領の支配下にあり、山の資源に恵まれた豊かで歴史と伝統文化に富んだ地域であった。特に砥沢地区から産出された砥石は、徳川幕府の「御用砥」となった。砥石を江戸まで運ぶ中継点として富岡新田が開拓され、そこがのちの富岡製糸場となった。

 地域の主産業は、明治時代から養蚕、蒟蒻、和紙、林業、採石(砥石と椚石)と多種多様であった。その中でも、南牧村が発祥の地と言われる蒟蒻栽培で地域は大いに潤った。急傾斜で水はけのよい特性が蒟蒻栽培に適していたからだ。当時蒟蒻は病気に弱く、栽培しにくい作物だった。

 そのため南牧村のような特別な山地でしか栽培できず、まさに独壇場となっていた。南牧産の蒟蒻は高値で取引され、「灰色のダイヤモンド」と呼ばれるほどだった。蒟蒻の段々畑が山の上までつくられ、その光景は「天まで続く蒟蒻畑」といわれるほどだった。

天まで続く蒟蒻畑が一転、衰退の一途を辿る
最大の強みだった地域の特性がハンディに

 ところが、品種改良や農薬、農機具の開発などが進み、蒟蒻栽培を取り巻く状況が一変する。平地での機械耕作が可能となり、南牧産は急速に競争力を失ってしまったのである。急傾斜に石垣を積み上げ、猫の額ほどの段々畑で蒟蒻を手づくり栽培する手法では、太刀打ちできなくなってしまった。最大の強みだった南牧の特性が、大きなハンディに変わってしまったのである。

 蒟蒻で富を手にした昔の味がどうにも忘れられない農家が多く、他の産品への転換がなかなか進まなかった。蒟蒻づくりを続ける農家は村外に農地を借り、そこで「出耕作」したのである。

 その頃、養蚕も安い輸入品に押されて急速に勢いを失った。和紙はそれ以前に衰退しており、林業も木材価格の下落で成り立たなくなっていた。国策に従ってスギ・ヒノキを大量に植林したが、そのまま放置されている。村の基幹産業が相次いで崩壊し、住民は仕事を求め、村外に転居するようになったのである。

1955年に3村合併で誕生した南牧村は、1971年に過疎地域に指定されることになった。その後の村の歩みは、人口流出との果てなき戦いの歴史と言ってよい。地域の活性化を図るべく、様々な施策を展開させてきた。