ボン大学の理論経済学教授アルチュール・シュピートホフがシュンペーターを正教授として招聘するために教授会で尽力し、プロイセン州文部省へ推挙したことは前回述べた。1925年夏のことである。

 当時のドイツの大学制度によると、教授会が人選の権利をもっていたが、最終的には州政府文部省の判断であり、教授会推薦が引っ繰り返ることもあったという。現にボン大学財政学教授の人選でも1回、1925年前半に文部省から差し戻されている。

 最終的に、シュンペーターはベルリンのプロイセン州文部省に呼び出され、面談でチェックされてから正式なオファーを受け取っている。

 なお、大学行政の所管は共和国政府ではなく州政府である。ボンはベルリンよりはるかに西方のライン川地域だが、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814-1815年)で、支配者はハプスブルク家のケルン選帝侯からプロイセン国王に代わり、第1次大戦後の共和国体制でもそのままプロイセン州の管轄となっていた。

財務相時代から親しい仲だった
シュンペーターとシュトルパー

 さて、シュピートホフはシュンペーターを推挙するに際し、グスタフ・シュトルパー(1888-1947)に助言を求めた(★注1)。つまり、シュトルパーの強い推薦によってボン大学のシュンペーター招聘は動いたのである。

 グスタフ・シュトルパーとはどのような人物なのだろうか。

 以下、シュトルパーの履歴や人物像(家族を含めて)については★注2に掲げた文献を参照した。文献は錯綜しているので脚注で一括して解説する。

 シュトルパーはウィーン出身のユダヤ系ドイツ人である。ルドルフ・ヒルファーディンクやエミール・レーデラーなどと同様だ。1906年にウィーン大学法=国家学部に入学して経済学を学び、1912年に学位を得ている。1888年生まれなのでシュンペーターより5歳下の後輩である。

 在学中から記事を執筆していた早熟の経済ジャーナリストで、ウィーン大学卒業後はすぐに経済週刊誌Der Osterreichische Volkswirt(「オーストリア・エコノミスト」)の編集者としてウィーンで取材執筆活動を始めている。