ピーター・ドラッカー

 ピーター・ドラッカーは世界中のマネジャーとマネジメント著述家の両方からマネジメントの権威として認められているが、彼自身は著述家と称されるのを好む。

 自分がマネジメントを発明したとは言わないが、マネジメントが社会や経済の安寧に不可欠な人生の知恵であると最初に考えたのはドラッカーだというのは自身も認めるところだ。

 ドラッカーの関心は実に幅広く、ジャーナリズム、美術鑑賞、登山、読書(特にジェーン・オースティンの作品にはインスピレーションを受けた)、そしてもちろんマネジメントについての教育や執筆やコンサルティングと実にさまざまな分野に及ぶ。70年以上にわたって出版された33冊以上の著作は少なくとも37の言語に翻訳されており、現代のマネジメント研究の祖と誰もが認める人物である。

人生と業績

 ピーター・フェルディナンド・ドラッカーは1909年ウィーンで知識階級の名家に生まれ、幼少時代は戦前ウィーンの文化的エリートたちに囲まれて育った。彼はハンブルク大学に入学するが、その後フランクフルト大学に移り、1931年には公法、国際法の博士号を取得した。

 ドラッカーはフランクフルト大学在籍中からフランクフルトの新聞社フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーで働き、国際および金融関係の編集部長に昇進した。その後文筆の才を認められ情報省での仕事を提供される。ナチスの台頭を憎悪の目で観察しナチスを糾弾する哲学的エッセーを執筆するが、おそらくこれが1933年の彼の渡英の契機となったと思われる。彼は1937年にアメリカに渡り、イギリス産業界向け投資アドバイザーやイギリスの新聞社数社の特派員として働いた。この中には、当時は「フィナンシャルニュース」という名であった現在の「フィナンシャルタイムズ」紙も含まれていた。

 彼の最初の著書『「経済人」の終わり』(The End of Economic Man)は1939年に発表された。1940年にはドイツ経済と外交政策を専門に、企業や政府の施策立案者向けの私設コンサルタントを開業した。1940年から1942年にかけてサラローレンス大学で教鞭を執った後、バーモント州ベニントン大学の哲学、政治学、歴史学、宗教学教授となる。

 この職について間もない頃、ゼネラルモーターズ(GM)の副社長に招かれ、現代の組織のあり方を究明し、組織を運営する経営者の行動実態を調査する機会を得た。

 当時ドラッカーはビジネスの経験は比較的少なかったが、彼の分析は1946年の『会社という概念』(The Concept of the Corporation)の刊行へとつながった(イギリスでは『大企業』〈Big Business〉というタイトルで出版された)。この本はさまざまな受け取められ方をしたが、ドラッカーのマネジメント著述家としての将来を決定づけたのは確かだ。

 1950年から1972年は、ニューヨーク大学経営大学院の経営学教授を務めるかたわら、幅広く執筆活動、教育活動、コンサルティング活動を行なった。1971年にクレアモント大学院大学の社会科学、経営学のマリー・ランキン・クラーク記念教授に任命された。この大学院には後に彼の名がつけられた。1994年にはハーバード大学のゴドキン講座講師に任命された。