しかし、Show Must Go On――(止めるわけにはいかない)。

 そんな絶体絶命の時、ある歌手が「あいつなら楽譜を全て頭に入れている。大丈夫だ」と、オーケストラ席でチェロを抱えていたトスカニーニを指差します。

 ここで、なぜトスカニーニが名指しされたか解説すると、第1にパルマの音楽院時代、彼はヴェルディの作曲技法を学ぶため、管弦楽の総譜をピアノ用に編曲して入念に分析・解読していたから。第2に、ブラジルへ向かう船中で、歌手の練習のためピアノ伴奏をしていたから。第3に、極度の近視だったので、常に楽譜を完全に暗記していたからでした。

 そうした経緯で指揮台に立った無名のトスカニーニでしたが、客席ではまだ怒号が飛び交っています。

 演目は、敬愛するヴェルディ「アイーダ」。その構造と技法と音楽的神秘は、学生時代に徹底的に探求済みです。

 無我夢中でタクトを振りきると、観客は大喝采。この時、トスカニーニ19歳。緊急事態の人事異動で、見事に代役をこなして飛躍のチャンスを掴んだ訳です。

トスカニーニ

 残念ながら、この時の録音はありませんが、1949年のNBC交響楽団盤(写真)は入手可能です。功成り名を遂げたトスカニーニの最晩年82歳の時の演奏ですが、耳をすませば、あのリオデジャネイロの運命の日の模様が滲んでいます。

(2)プレッシャーが大成功を生んだ
ヨハン・セバスチャン・バッハ「ヨハネ受難曲」

 バッハは、その65年間の生涯を宮廷音楽家として全うしました。ドイツ中部の田舎町アイゼナッハに生まれ、18歳にしてアルンシュタットの新教会のオルガニストに就任。音楽家として独立します。

 以来、バッハはドイツのワイマール、ミュールハウゼン、ケーテンと転勤を繰り返しながら、音楽界のヒエラルキーを昇っていきます。

 そして1723年5月。ザクセン州最大の都市・ライプツィヒの音楽監督に就任します。この時38歳、立身出世でした。

 ただし、ライプツィヒの役人やお偉方は守旧派だったため、「全く気が進まない」というのがバッハの本音でした。