今こそ立ち止まって考えたい
わたしたちの暮らし

 今の生活は便利に人の手をかけなくても、すべてできる時代になってきました。
 けれども、これでいいのだろうか、わたしたちの生活を結ぶものはどうあるべきか、そういったことを考える時期にきたのではないでしょうか。

 ここ20年ぐらいの間に、国内だけでなく海外からも講演会やおむすび講習会で招かれてきました。
 そこでずっと感じてきたのは、どこへ行っても高層の建物が乱立しているということです。現場を見ると土がまったく見えないような状態。
 それを見て地球はどんな思いをしているんだろう、とわたしは心を痛めてきました。
 そこに大震災が起きて、これだったんだって。わたしたちにとって便利に都合よく自然が破壊されて……、こういうことをわたしたち一人ひとりが考えなければいけないのだと思いました。

 震災が起こってから、わたしなりに少しずつ生活を変えていきました。
 調理の際、野菜の水分を切るのに長タオルを使っていたのですが、よく調べてみると3分の2あれば十分に足ります。
 そこで残りの3分の1は切って、切り口を始末して小さくしました。
 水や電気も知らず知らずのうちに無駄なことをしていたのではないかと使い方を改めました。
 被害を受けた人にお見舞いをあげるときも、あれがいいだろうかとこちらで考えるのではなく、何を必要としているのかよく考えたいと思いましたね。
 「求められている」とはっきりわかればいいですけれども、そうでないものをあげて活かされないまま部屋に山積みになっていることもありましたからね。
 特に被害者自身に対しては、言葉で慰めるというものではないと感じました。おいしいものをつくって、一緒に食べて、話を聞いてあげる、いつもの活動を変わらずにすることがいちばんでしたね。

ほんとうの「奉仕」の価値とは?

 ここ20年の間、人も“透明”になることが大切ではないか、どこから見ても透き通って見えるような素直な生き方のほうが生きやすいと思ってきましたが、震災のときも、それをまた強く感じました。

 何かをしてあげたい、よくしてあげたいと思う心は透明には入らないのです。

 震災以降、若い人たちが「人のために役に立ちたい」と、はっきり思って行動に移し始めました。
 しかし、実際お会いしたダライ・ラマ法王もおっしゃっていましたが、それがほんとうの奉仕になっているのかどうか。相手の希望に応えるのがほんとうの奉仕なのに、ただの自己満足に終わっていないかどうか。そこが重要です。

 今もって忘れられない出来事があります。
 近所に商店をしている奥さんがいて、毎日とても忙しく働いていらした。子どもたちのごはんの支度も大変だろう、とわたしは手づくりのコロッケをたくさんつくって届けたのですね。
 でも、そのあとに何の音沙汰もありません。それでよせばいいのに、わたしは「どうだった?」と聞いてしまったんです。
 そうしたら「うちの子は手づくりのものは食べないんですよ」って。「おいしかった」という言葉が聞きたかったがために、つまらないことを聞いたものです。そして相手が必要としないものを差し出したことにも深く反省しました。

 ですから、奉仕というのは相手の希望にこたえるものであることはもちろん、見返りを求めるものでもないですし、道端に歩くときにそっとおいておくもの。さらに、わたしは「振り向きもしないで」とつけ加えたいですね。