通算参拝数1万回の「日本の神さまと上手に暮らす法」の著者・尾道自由大学校長・中村真氏が「神さまのいるライフスタイル」を提案します! 日本の神さまを意識することで、心が整い、毎日が充実する。そして、神社巡りは本来のあなたに出会える素晴らしい旅だと伝えてくれます。
日本の神さまをあなたの生活に取り入れて、おだやかに輝く暮らしを手に入れてはみませんか。まさにあなたの生活のなかにそのヒントが隠れているのです!

きれいな部屋で過ごしていますか?
日々のそうじで新しく生まれ変わる

神さまと仲良く暮らしたいのなら、自身の住まいを整えておくといいでしょう。きちんと片付け、ていねいにそうじをする。「散らかったから、汚れたから、来客があるから」という理由はなくても、できれば毎日毎日、きれいにする。
たったこれだけのことで、家のなかにきよらかな場所をつくり出すことができます。

 二〇一三年が特別な年であったことを、ご存知の方も多いでしょう。
 二〇年に一度行われる三重県の伊勢神宮の式年と、六〇年に一度行われる島根県の出雲大社の大遷宮が重なった年。伊勢と出雲で同じ年に遷宮が行われるのは、有史以来初めてでした。

伊勢神宮といえば、二つの〈正宮〉がよく知られています。一つは太陽の神さまとして知られる〈天照大神〉を祀った〈内宮〉。もう一つは農業、衣食住など、食と暮らしの神さまである〈豊受大御神〉を祀った〈外宮〉です。しかし、実際は周辺にある一二五社を全部まとめて伊勢神宮といいます。
 ちなみに伊勢神宮というのは通称で、正式名称は〈神宮〉。明治神宮、熱田神宮、宇佐八幡神宮など、全国各地にあまたある神宮のトップゆえに、伊勢神宮の本当の名前はただの神宮なのです。
 伊勢神宮は六九〇年からほぼずっと、二〇年ごとにすべての社殿を建て替えています。そうやって神さまに、いつも新しいお社に鎮座していただく歴史をつむいできました。
 伊勢地方のあちこちに移動するのではなく、社殿の隣には空き地があり、右から左へ、左から右へとかわるがわる遷宮しています。

 いっぽう出雲大社に祀られている神さまは〈大国主命〉。
 およそ一三〇〇年前の『古事記』によると、世界は天上の〈高天原〉、地上の〈葦原中国〉、死者が住む〈黄泉の国〉の三つでなりたっていました。高天原に住む〈天津神〉である天照大御神の悩みは、〈国津神〉である大国主命が治める葦原中国が乱れていること。
「やはり自分たち天津神が統治したほうがうまくいく」と考えた天照大御神は、使者を派遣します。交渉の結果、大国主命は葦原中国の統治権を譲り、出雲に隠居するのです。このことから彼は“国譲りの神”とも言われています。

 ざっくり言うと伊勢神宮は天津神の総本山、出雲大社は国津神の総本山です。

 出雲大社の大遷宮は、伊勢神宮とは異なり、移動も建て替えもしません。言ってみれば改修工事で、「そろそろメンテナンスが必要だな」となったら着手するため、必ずしも六〇年に一回ではないのです。六〇年はあくまで目安。ときには五十数年、ときには六十数年で大遷宮が行われています。

 こう考えてみると、「遷宮=神さまのお引っ越し」という解釈は、伊勢神宮の遷宮を表面的にとらえたものに過ぎない気もします。

 僕なりの解釈では、伊勢神宮の“引っ越し”も、出雲大社の“改修”も手段。遷宮の本来の目的は、「きよらかなところで生まれ変わる」ということだと理解しています。

 本来、神社というのは、神さまの魂が宿る気持ちのいい場所。
 遷宮は“魂が甦る、リフレッシュする、生まれ変わって新しい命が宿る”という意味合いが込められているのだと思います。

 丹念にととのえ、すみずみまで磨き抜くことは、移動と同じくリフレッシュの手段です。見慣れた自分の家であっても、きよめればすっきりと気持ちよい場所に変わります。単にきれいにするだけで、自分までととのう感覚です。
 神さまは、遷宮という大きなことをしていますが、もっと身近でささやかなことでも、疑似体験ができる気が僕はしており、それこそがそうじではないかと思うのです。

 トイレ、部屋、水回り。忙しければ玄関と神さまコーナーだけでもいい。きれいにそうじすることは、家を“神さまの魂が宿る気持ちのいい場所”に変える第一歩です。「神さまコーナーなんかいらない」という人でも、そうじだけで暮らしが変わってきます。
 伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じ年になる不思議なタイミングはなかなか巡ってきませんが、“暮らしの中の遷宮=そうじ”であれば、毎日でもできるでしょう

 ひとつ付け加えると、神社にお参りする前には、禊をします。持っている杖を捨て、まとっている衣服を脱ぎ、かぶっているものを取り、裸の気持ちになる。これは「依存しているものや固定観念、肩書きを捨てる」という意味があると僕はとらえています。

 神道の祝詞に「明き心」という言葉がありますが、「捨てて、捨てて、捨てて、最後にはくい心が残る」ということ。
 余計なものを捨て、本当の自分自身になったときに明き心が残るわけですが、誰でも生まれたてのときは衣服も肩書きもありません。そこで生後間もない人間を「赤ん坊」「赤ちゃん」と呼ぶようになったという説もあります。
 赤ちゃんのもつ「明き心」を忘れかけている僕たちだから、そうじや捨てることが必要なのかもしれません。

◆今回の気付き 
神さまと暮らしやすいようにそうじをする

朝、食事、就寝前、
一日のなかに感謝のタイミングをつくる

 朝、目が覚めて「ありがとう」と思い、神さまコーナーに手を合わせる。
 こうした行為は神さまと仲良くすることであり、一日のなかに“感謝の習慣”をとりいれるということです。
 人によって、感謝のタイミングはいろいろでいい。
 僕の場合は、朝目覚めたとき、神さまコーナーで祝詞を上げるとき、三食のごはんをいただくとき、夜眠る前、感謝のタイミングをつくっています。特別な理由はないのですが、それぞれのタイミングで「しあわせだな」と感じることは確かです。

 朝は一日の始まりで、始まったことそのものがしあわせ。おまじないのように毎朝そう意識すると、一日がポジティブになりやすいのです。

 夜は一日の終わりまで、すこやかに過ごせたことがしあわせ。
 結構キツい日であっても、夜眠ることができるというのは、明日をまた始められるということ。これも実は小さな奇跡です。僕は眠るのが大好きなので、「うれしい、くつろげる、しあわせ!」という面もあります。

 食事の前は、ごはんをいただけるしあわせ。おいしいし、楽しいし、「食べられることで生きていける」というしあわせでもあります。
 パン! と一拍、を打って「いただきます」と感謝するのは、誰かとごちそうを食べるときでも、忙しいときの立ち食い蕎麦でも同じ。たった一人のときにも、「いただきます」と感謝してから口にするようにしています。
 なぜなら、僕の「いただきます」は、つくってくれた人に捧げる言葉ではないから。もちろん、心を込めてつくってくれたことへの感謝はありますが、それはまた別のもの。お店なら会計したあと「ごちそうさまでした」と挨拶しますし、家族や友人なら「おいしかった、ありがとう」と伝えます。

僕が言う「いただきます」の意味は、「命をいただきます」
 動物であれ、植物であれ、自分の命を育んでいくためには、誰かの命をいただかねばならず、それこそが食事です。そう思うと、「誰にも迷惑をかけているわけじゃない」などと決して思えなくなります。「全部、自分の力でやっている」と突っ張った肩の力も、ふっとほどけていきます。

こんなふうに、一日のなかに感謝のタイミングをつくれば、知らず知らずのうちに、意識をととのえていくことができるのです。

 次回は、日々生きていることへの感謝の気持ちをもう少し掘り下げて考えてみようと思います。

◆今回の気付き 
食事の前に「いただきます」と言う