「空気を読めない」映画監督

 今年の4月下旬に『R30』というTBSのトーク番組に出演した。司会役は、ジャニーズ事務所に所属する国分太一(TOKIO)さんと井ノ原快彦さん(V6)の2人。

 報道系の番組からは時おり出演依頼はくるけれど、こんなエンターテイメント系の番組から依頼されることは、(僕としては)珍しい。放送日当日の朝、届いたばかりの朝刊紙面ラテ欄に記載されていた番組の見出しには、「KY監督」なる文字があった。なるほど。「空気を読めない」映画監督。確かにそのとおりだ。

 その放送は収録からほぼ1週間後。放送後にこの連載の担当編集者である笠井一暁から、以下のような内容のメールが来た。一部を要約しながら引用する。

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 先日、『R30』に出演されているのを拝見しました。

 やはりというか、「タブーに挑戦し続ける」というフレーズで、森さんが紹介されているのを見て、森さんがいろいろなところで書かれている文章を読めばこのフレーズは使わないだろうとか、それでもわざとこのフレーズなのかな、などと考えてしまいました。

 もし、森さんが「タブーに挑戦し続ける」という言葉に、意図的に乗っかったらどうなるのでしょうか。

 森さんのイメージは変わるでしょうか。

 変わるとしたらどう変わるでしょうか。

 メディアにとっても、森さんにとっても、都合のいい共同幻想ができあがるのかな、などと考えてしまいました。

 ということで今度は、森さん自身のイメージをテーマにするのはいかがでしょうか。

 森さんご自身は「マイノリティ」とか「鈍い」といった言葉を使われていますが、もし「社会正義のためにタブーに挑み続けています」という言い方をされたらどうなるか……。

 わかりやすい言葉や耳障りのいい言葉、カッコイイ言葉が創り出すイメージにはどんな負の側面があるのか……。

 そんな文脈で共同幻想について論じられないでしょうか。
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 タイトルが示すとおり、この連載の一貫したテーマは「共同幻想」だ。そして毎回のテーマは、笠井のアドバイスに拠るところが大きい。担当編集者の機嫌をとってもしかたがないけれど、毎回とても鋭くて的確な指摘と提案をしてくれる。

 でも今回はどうだろう。ちょっと疑問。なぜなら森達也は、共同幻想という言葉がフィットするほどには社会的な存在ではない。ドキュメンタリー映画ファンかノンフィクション系の本を読む人なら、名前くらいは知っているかもしれないけれど、でも一般の認知度などないに等しい。

 ……まあでも、少なくともこの文章を読んでいる人たちにとっては、森達也という存在は自明であるとはいえるだろう。とりあえずはそこに甘えよう。そのうえで考える。森達也という共同幻想について。その発生のメカニズムと作用は何か?

 ……と改めて書くと、やはりこれは相当に夜郎自大だ。何様のつもりだ、いい気になりやがって、と思う読者も多いだろうな。だからもう一言だけ。