男性誌が発信した「ちょいモテ」「ちょいワル」。

 世間で流行っているからと迎合し、まわりの評判だけに流されるのはワルではない。

 だいたい、「ちょい」とエクスキューズする根性がすでにダメなのではないか。

 女性にモテたいなら、モテたいと言えばいい。ワルならワル、善なるものはヨシとしてほしい。少し曖昧にすることで初めから逃げを打つ性根が透けて見える。

 ちょいモテおやじは、自分のことを軽く卑下しながら威張る。なぜ軽く卑下するかといえば、自分は高学歴の大企業エリートであり勝ち組っぽいと思っているからだろう。

 だから、ちょっとしたお洒落を楽むことのできるオレってイケてる? と語尾を上げる。いい大人が語尾を上げて喋るのはみっともない。

お金にあかした
“下心”より“男気”

 お金があることは悪いことではない。自由になるお金がないよりもあるほうがずっといいに決まっている。今の日本で社会的生活を営むには、ある程度のお金を持たなければ、人は浅ましく卑屈になることもあるだろう。卑屈な男はカッコ悪い。

 女性や部下と食事をしたら、さらりと代金を払ってほしいし、帰りのタクシーに同乗する(女性と2人きりは危険だが)ときには彼女や部下を先に降ろして自宅へ戻るくらいのこともできるだろう。近ごろ、女性が1人でタクシーで帰宅するため乗車できる車を停め、運転手に行き先を告げて料金を預ける男性も減ってきた。

 それは金にあかした下心あってのことではない、男気であってほしい。

 ところがちょいワルおやじになりたい男性は、お金がすべてだと思っているふしがある。お金で買うことのできる自由や時間はあるが、お金だけがすべてではない。

 お金に対する考えかたは、それを持つ者に嫉妬したり、相手を引きずり下ろしたいなどとケチ臭いものではない。地位やお金を持つ者にインスパイアされ、それらを目標とし、手に入れていくのである。そしてきれいに使ってほしい。

 金でなんでも買えると豪語したIT長者であっても、国会の議席ひとつ、判決ひとつ買うことはできなかった。わらわらと群がる女どもを買うことはできても、彼を心から愛するただ1人の女性を買うことができるだろうか。平気で売るヤツを買うことはできるが、買うことのできない類いのものは買うことができない。