お墓は必要か、必要でないかを巡って議論が沸騰している。そこでダイヤモンドQ編集部では前回の家田荘子さんに次いで、宗教評論家のひろさちやさんにお墓について聞いた。ひろさんは、人は輪廻転生して、誰もが死後はお浄土に導かれるものであり、遺骨は抜け殻にすぎず、私はお墓は不要だと主張する。

ひろ・さちや
宗教評論家。1936年大阪府生まれ。東京大学人文科学研究科インド哲学専攻博士課程修了。大正大学客員教授。「仏教原理主義者」として本来の仏教を伝えるべく活動している。

 お墓の問題とは、詰まるところ遺骨の問題です。納骨して遺骨を大事にするのが死者への礼であるとしたり、そうしてもらいたいと願う人もいます。また、「おしゅうとめさんと墓まで一緒は嫌」と、わざわざ自分専用のお墓を準備する人もいる。

 しかし、昔の日本人は遺骨なんてどうでもよかった。そもそも「遺骨」という考え方そのものが存在していませんでした。「遺骨」が存在感を増し、その流れでお墓が問題になってきたのは1970年代に火葬が全国的に普及したことによります。それまでは土葬であり、死者の霊がよみがえらないようにと重い石を置いた。これが墓の起源といわれ、つまり墓は死体処理の場でした。

 よく「死者の霊を弔う」といいます。日本人は遺骨=霊という思いが強いですが、仏教では霊の存在について「ある」とも「ない」とも言っていない。『マツジマ・ニカーヤ』で釈迦は、「霊については何も考えるな」と教えています。だから禅僧は、霊の存在について一切考えない訓練を積みます。しかし在家信者はそうはいかない。

 その救いが「お浄土」です。宗派により呼び名は違いますが、阿弥陀仏の極楽世界、釈迦仏の霊山浄土、大日如来の密厳世界など、死ねば浄土に導かれると説きます。それを信じ、「南無阿弥陀仏」「南無釈迦牟尼」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」などを唱えていればよい。だから仏教においては墓は造らないでよいし、むしろ造らない方がよいのです。

 死者はお浄土にいるのであり、そこにある骨は「もぬけの殻(抜け殻)」でしかない。それを恭しく拝んで供養した気になるのは残された者の執着であり、死者にはまったく関係のないことです。

 そもそも「人は死んで四十九日目に輪廻転生する」と考えるインドでは、輪廻転生するのだから墓など何の意味もない。ただし釈迦だけには立派な墓があります。なぜならば、悟りを開き涅槃の境地にあるお釈迦様は、二度と生まれ変わることがないからです。

 では遺骨をどうすればよいか。捨ててしまえばよいのです。江戸前期の書物である『続和漢名数』には、「土葬、火葬、水葬、野葬、林葬」の五つがあると記されています。最近は樹木葬や散骨に関心が高まっていますが、「自然葬」は新しいようで伝統的な葬法なのです。

 私は、京都の実家にお墓がありますが、妻や子供たちには、「すぐにお浄土に導かれるのだから散骨してくれ、墓参りなど不要」と言っています。私は仏教徒としての教えに従っているだけですが、一方で、お墓や遺骨には、その土地なりの習俗が深く根付いています。習俗の力は大きい。ご自身が「やはりお墓に入り、参ってほしい」と思われるのならば、それはご自由だと思います。(談)