東京の自宅で上海万博開幕式のテレビ中継を見た。花火とイルミネーションに輝く上海の夜景には感慨深いものがあった。1985年から生活の場を日本に移した筆者は、海を隔てた日本を通して上海と中国の変化を感じているからだ。
日本の醤油にも慣れなかった昔の訪日団
留学生時代、学費を稼ぐために通訳や翻訳の仕事をたくさんした。1990年代前半頃まで、来日した中国人を接待する時、一番頭を悩ませたのが食事だった。日本側が好意で用意してくれた和食の味に慣れず、仕事の重圧もあり、みるみるうちに痩せてしまう人もいた。日本の醤油の味がだめだという人もいれば、カレーライスに拒絶反応を起こした人もいた。
見かねた筆者は、受け入れ先の日本企業の社長と相談して、中国人視察団の関係者を自ら食事に連れていくことにした。「餃子の王将」やお好み焼きの店などだった。チャーハン、餃子、野菜炒めを見て、みな目を細めた。熱い鉄板の上でそれぞれ自分の手で作った焼きそばが大人気だった。その面白さに魅せられ、もう一回連れていってくれと頼まれたこともあった。
受け入れ先の社長が筆者の請求額を見て目を丸くした。「こんなに安い金額でいいの?みんながきちんと食べているのか」と逆に心配されてしまったほどだった。しかし、社長から「莫さんが連れていった店の料理はどうでしたか」と聞かれると、みんなが親指を立てて「好!」を連呼した。つまり「素晴らしかった!」と褒めてくれたのだ。
もうひとつ忘れられないエピソードがある。江蘇省鎮江市を訪問した時、ある工場の社長が筆者の泊るホテルまであいさつにやってきた。何と筆者が京都に留学していた時、通訳として接待した人だった。その日の夜は一緒に食事をしながら昔話に花を咲かせた。その社長は、泊っていたホテル(ちなみに京都グランドホテル〈現リーガロイヤルホテル京都〉)の差し向かいの道路側にあった屋台で食べたラーメンの味をいまも時々思い出し、もう一度食べたいと言った。
そう言われ、当時のことを昨日の出来事のように思い出した。日本側の夕食の招待を終えてホテルに帰ると、みんな実は招待の食事の味に慣れず、あまり食べていなかったと打ち明けてくれた。仕方なくみんなを連れて食事に行く。そこでよく利用したのがホテルの差し向かいにあったラーメンの屋台だった。