飲食業で失敗、27歳で明光義塾のフランチャズ(FC)オーナーとなった箕輪友行は、生徒と講師を連れて近くに新たな塾を開く社員などの度重なる裏切りにあいながらも教室を次々と開いていった。社員教育に目覚めた箕輪は、いまや77教室を展開、ワンブランドの店舗数で日本一を誇るまでに成長した。

父が末期がんになり大学中退
喫茶店を開くも客足は伸びず

MAXISホールディングス箕輪友行会長

 箕輪友行が起業したのは、思いもかけぬことがきっかけだった。大学3年になったばかりのこと、父親が肺がんで、しかも余命3ヵ月の末期がんだったことがわかったのだ。一人っ子だったので、父の購入した浦和(現:埼玉県さいたま市)にある一戸建てのローンの支払いと父親の医療費、生活費を稼がなくてはならない。

 すぐに大学を中退した箕輪は、いくつかの会社に勤めた。父親は「お前の好きなことをやっていいんだぞ」と言い残した。そこで家を売却、1885年、24歳のときに起業した。米国のダイナー、ヨーロッパのカフェのような店を湘南の海沿いでやりたかったのだが、家賃が高すぎて断念、都内に小さな店を出した。

 新目白通りと明治通りの角で、夜はお酒も出す喫茶店のような店だった。3年間、この店をやったのだが、その間は辛いことばかりだった。人に騙されたり、良くないことばかり起きたが、最大の悩みは客足。「お客様の来てくれない店ほど辛いものはなかった」と箕輪は述懐する。だから生活するのがやっと。店の冷凍庫の上に段ボールを敷いて、その上に寝るような生活が続いた。

FC学習塾の明光義塾に加入
順調に教室数も増える

 転機は1988年、27歳のときにやってきた。世の中はバブル最高潮で浮かれていたとき。持ち帰り弁当屋さんの大手が、ここに店を出したいと立ち退き料800万円を提示してきたのだ。赤字続きだった店である。箕輪は、この話に即座に応じた。思わぬ形で入ってきた800万円。このカネで借金を返済するか、再度チャレンジするか迷ったが、もう一度チャレンジすることにした。

 大学を中退したあとで働いたファーストフードに興味を持っていた箕輪は、ファーストフードのフランチャイズチェーン(FC)店を考えたのだが、出店費用が高くて手が出せない。安いのはたこ焼きやお好み焼きのFCくらいだった。他のFCも検討した。DPEや印鑑店など数あるFCの中から学習塾に決めた。