ここには信号も設置され、無数の警官が交通整理をしていますが、車が7重にもなって門の周りをグルグル走っているのですからたまりません。2時間いれば、1つや2つの接触事故は見られるでしょう。(因みにフランスの保険会社は、この場所での事故は免責、つまり補償してくれない)

 パリにはこういった交差点が幾つもあります。なぜ道路をキレイな格子状にして、4叉路にしないのでしょうか? なぜにこんな不便なものを?

 答えはまったく逆なのです。そしてそこに、凱旋門の、そして欧州人の「意思の力」の本質が現れているとも言えるでしょう。

首都再興のためのパリ大改造

 「田舎もの」という語源をもつパリは、セーヌ川の中洲であるシテ島を中心に、2000年掛けて徐々に発展してきました。その形態は「城塞(じょうさい)都市」であり、ちょっと発展しては城壁(*3)を円環状に拡げて都市に取り込むものでした。

 結果、パリ市街地の道路は細く、屈曲し、とても非効率なものになりました。入り組んだ細い道は犯罪や反乱の温床ともなり、衛生状態もよくありませんでした。シテ島は貧民窟と化し、パリはその魅力を失っていきました。

 フランス最後の皇帝ナポレオン3世(為政は1852~70)の下でセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンは、これを大胆に破壊し、再構成し直しました。

 その目的は「物流効率化」「治安強化」でした。

 魅力的で生産的な首都の構築のために、人や物、そして軍や治安部隊を迅速に各方面に派遣できることは必須です。より快適な居住や消費にもつながる、最大のインフラ強化施策が「道路の整備」でした。

 その中で、各方面に直線的に伸びる大通りが縦横・放射状につくられ、狭く入り組んだ路地裏が潰されていきました。それまであった路地裏の4割が破壊されたとも言います。

*3 最古は5~6世紀から。より外側の城壁がつくられると内側のものが取り壊され、そこが環状の大通り(blouvard)となった。blouvardの語源は「城壁の上の道」