〈追記〉「六士先生・慰霊顕彰の集い」でのこと
2016年6月26日、靖国神社で「六士先生・慰霊顕彰の集い」が開かれ、楫取道明先生のお孫さんである元拓殖大学総長の小田村四郎氏が想い出を語った。92歳になられた小田村氏がまだお元気なうちにいろいろとお聞きしたいという周囲の声を受けての講演会だった。
1895(明治28)年、日清戦争に勝利した日本は、4月17日に締結された日清講和条約によって清国から台湾を割譲され、台湾統治に乗り出した。わずか2ヵ月後の6月14日に、東京師範学校校長を務め文部省学務部長心得となった伊澤修二らが台北に着任した。台湾総督府始政式の翌日の18日、早くも学務部事務を開始し、約ひと月後の7月16日には芝山巌学堂において台湾人伝習生に国語の伝習を開始した。日本の統治はまさに地元民への教育から始まっていた。芝山巌学堂は台湾近代教育発祥の地なのである。
しかし、台湾はまだ政情不安の地であり、匪賊も多く、日本人は金持ち民族として狙われていた。そうした中で、日本人教師たちは「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、人々の教育などできない」という信念を捨てなかった。芝山巌の学堂は、行ってみれば山上にある。賊が襲おうと考えれば、いくらでもその余地がある自然の中だ。それでも楫取らは教育に打ち込んだ。そして約半年が過ぎ、本文でも触れたように、総督府での新年の祝賀に参列しようと山を下り始めたときに襲われた。
日本李登輝友の会の柚原正敬氏の資料によると、100人ほどの匪賊に取り囲まれた6人の教師は、賊に諄々と道理を説いたという。賊は耳を貸すことなく全員を殺害したが、日本の教師たちの台湾人に対する献身は台湾人たちがよく知っていた。台湾の人々は、李登輝元総統が私に語ったように、今でも芝山巌を「台湾教育の聖地」と呼ぶ。
小田村氏は、祖父の楫取道明を含めて日本人全員が、台湾の治安及び教育に一生を捧げる覚悟だったと思うと語った。6人の災難が台湾人に感銘を与えたことは、そうした覚悟が自ずと伝わっていたからではないかとも語った。
六士先生が台湾で教育に身を捧げ始めた当時、児童の就学率はとても低かった。統計の残っている1899(明治32)年で2.04%である。それが日本統治終了の前年、1944(昭和19)年では92.5%である。日本がいかに教育に力を入れていたかがこの数字からも明らかだ。
六士先生はいま全員、靖国神社に祀られており、日台両国を見守っている。