22歳まで日本人として過ごし、いま92歳の李元総統は、70年間、(国民党の)中国人と暮らしてきた。国民党の蒋介石主席(当時)の長男、蒋経国氏に引き立てられた。経国氏が総統に就任すると、李氏は副総統に指名された。なぜ、中国人ではない台湾人の李氏が引き立てられたのか。李元総統はこう断言した。

「正直で真面目だからです。とても日本的だからです。蒋経国は中国社会でもまれて、ロシアで暮らし、中国人、ロシア人について何でもよく知っている。その彼が中国的でもロシア的でもない極めて日本的な私を選んだ」

李元総統は日本人は誇りを持てと私を励まし、日本人があまり知らないかつての日本人の功績について語った。

「日本人が台湾総督府を開設したのが、日清戦争後の1895(明治28)年。日本の台湾統治開始から約半年ほどしか過ぎていない7月には、早くも芝山巌に最初の学堂として国語学校が造られ、6人の教師が赴任しました」

日本はこのときから50年間台湾を植民地として支配したが、現地の人々に教育を徹底させるところから植民地統治を始めた国は、日本をおいて他にない。植民地支配を肯定する気は毛頭ないが、それでも、日本国政府も国民も、教育を通して相手国を成長させたいと望んでいたことは評価してよいだろう。

日本から派遣された6人の教師は楫取道明、関口長太郎、中島長吉、井原順之助、桂金太郎、平井数馬各氏だった。6人の教師は1896(明治29)年、総督府での新年の会に参加すべく、早朝、芝山巌の学校を出発した。その途上、現地住民の襲撃を受けて全員が殺害された。

6人の師は台湾では「六士先生」と呼ばれており、六士先生を悼む記念館が芝山巌学堂跡に建てられた。いまでも毎年2月1日に供養の法要が営まれている。惨殺の悲劇を超えて、芝山巌は日本が台湾人教育に力を注いだ証しとして大切に保存されている。日台の絆の深さを示す歴史がここにあると感じた。

(『週刊ダイヤモンド』2015年10月3日号の記事に加筆)