夫はそんなわたしの冷たい反応など屁とも思わぬようで、引き続き持論を展開します。

「できるだけ辺鄙なところで、そうだな、東京にはない、広い広い敷地っていうことは……500坪くらいでどうだ?こどもたちが自由に外遊びできるし、虫取りも魚獲りもできるし、花も野菜も十分につくれる。しかもな」と、夫はにやりと笑います。

「おまえには、大姑と姑のいる家に来てもらって、苦労かけてると思うんだ。いくら仲がいいとはいえ、気を遣って暮らしてるだろう?すみません、ありがとうございます、っていつも言ってるもんな。たとえば俺は仕事で忙しくても、こどもたちとおまえが田舎で過ごして羽を伸ばせれば、ずいぶんリフレッシュするだろ?週末くらいおまえをのんびりさせたいんだよ」

 これには呆れました。彼がそんな気遣いのある人間でないということくらい1000パーセント分かっているのです。むしろ、お互いの心遣いにより義母らとは良好な関係をつくっているのに、突然思い出したように「みおり!大丈夫か?いじめられてないか?」と無用でデリカシーゼロの発言をし、事態がややこしくなることさえあるのですから。

 言うに事欠いて嫁姑関係を持ち出してまでわたしの気を引こうとは、なんと浅はかな作戦だろうと、ぷいと横向いたわたしですが、実は、ほんの少し(週末住宅か、いいひびき……)と思ってしまったのです。そんなニュアンスだけは目ざとく拾い、おもむろにこちらを向いて、彼はさらに続けました。

「人生、一度きりだぜ?子育てなんて長いようであっという間だよ。こどもたちを思う存分野遊びさせられる環境で暮らすことを、俺らの人生の贅沢、としてもいいんじゃないか?金額としてはほとんど財産らしい財産は残せないが、“田舎”という財産なら残してやることができるかもしれない。

 それに、フェラーリに乗るっていう贅沢より、生活に広がりがあるだろ? いや、フェラーリも欲しいけどな、ハハハ。先立つもの?それはだな、どうにかなる。どうにかなる範囲で探す。そして、おまえがいずれ大金持ちになる。だから大丈夫だ」

 なるほど。後半はまったく意味不明なのですが、前半は一部、納得できなくもないと、このとき思ってしまいました。確かに、目黒通りをドライブしていると、ほとんどゼロ3つ万円という超高級外車がたくさん走っています。そしてそれらは、超高級住宅だけでなく、わりとリーズナブルに見える住宅やマンションの駐車場にも普通に停められていたりします。

 限りある財源の中で、その家族や個人にとって納得のいく贅沢の形がある。わたしはフェラーリは買わないし買えないけれど、それが「田舎の土地」だったら、どうにか頑張って手に入れたいと、思うかもしれない。それだけの価値があると、判断するかもしれない。心がぐらりと揺れました。

「田舎?土地?セカンドハウス?贅沢ですダメ」とはじめは、はなから取り合わずに撥ねつけていましたが、一般的に欲しいと思う人の多い高級外車をイメージした上で価格比較をしたとき、むしろ「田舎に土地を買う」ことにリアリティを感じてしまいました。自分たちにとって相応しい形の贅沢、生活の豊かさにつながる贅沢に対して投資してもいいのではないか、と。

 ふと心の持ちようが変わったのは、この会話だったのでした。

(第6回に続く)