当時、幸之助は66歳。体力・気力共にまったく問題はなかったが、自分が元気なうちに新社長の手腕を見極めておきたかったのだろう。「早めに経営の第一線を退き、後継者を養おうと思った」と、幸之助は退任の弁で語っている。
ただ、幸之助は正治の経営者としての力量には早々に見切りをつけていたと伝えられる。正治の社長就任からわずか3年後、64年の家電不況の際に、幸之助は「代表取締役会長・営業本部長代行」の肩書で前代未聞の前線復帰を果たした。このショック療法で松下電器は業績の急回復を遂げるが、正治の権威は失墜。幸之助と旧番頭による経営体制が復活し、経営の若返りは実現しなかった。
その後、幸之助は77年に、取締役26人中25番目の平取締役だった57歳の山下俊彦を社長に抜てき。若返りを託すことになる。そして正治は代表権のある会長に就任した。だが、まったく“隠居”したわけではない。それから22年間、山下、続く谷井昭雄、森下洋一と創業家以外の社長に交代していく間、2000年まで会長として君臨した。幸之助の死後も、松下家の世襲問題は長年、パナソニックの隠れた経営課題としてくすぶっていたのである。
この間、松下家の3代目として常務、専務、副社長を歴任し、次期社長と目されていたのが正治の長男、正幸だ。しかし、2000年6月に中村邦夫が社長に就任し、副社長だった正幸は副会長に。正治も名誉会長となって実権を失い、事実上、パナソニックの経営から松下家が排除されるかたちになった。
そんな正治だが、会長時代の93年に掲載されたインタビューで、終戦直後や高度成長期に松下電器が直面した“危機”について語っている。最後に述べた「松下電器に対する思いは、私が一番強い。会社のためにどうしたらいいかを、いつも真剣に考えている。私は会社と共に生きなければならないという宿命を背負っているのだから。これからも、松下電器が左前になったら、私はとてもたまらんですよ」という言葉は、松下家の影響力が徐々にそがれていく中、むしろ当時の経営陣に向けたメッセージだったのではないだろうか。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
終戦後10年間は
最大のピンチだった
1993年6月5日号より
今でこそ、松下電器は売上高が4兆円規模の巨大企業だが、終戦直後には、資金繰りで苦労する姿があった。特に、終戦後10年間は、松下電器にとって、最大のピンチだった。なにしろ、仕事もない、金もない、借金はかさむ一方というありさまだった。今となっては良い思い出だが、私の松下電器での50年余りに及ぶ経営者人生の中でも、この時期は、資金面で、非常に苦労させられた。
戦後は、占領軍に財閥の疑いを掛けられ、「準財閥」の指定を受け、商売をストップさせられた。その上、借金には悩まされたのである。
終戦当時、私は、内田工場(飛行機の電装部品の製造)の工場長をしていた。終戦後、すぐに取引先の債権の取り立てに回った。が、法律が変わり、軍に対する債権が全部、価値がなくなってしまったのである。後に残されたのは、債務だけだった。しかも、内田工場のみならず、松下電器全体がそうだった。そして、借金ばかりが増えていったのである。