公衆電話が減った。かつては街のあちこちにあり、地元やよく行く場所ではどこに公衆電話があるかを覚えていたし、待ち合わせの場所でもあった。推理小説やドラマにもしばしば登場した。携帯電話の普及でその数も減ったし、日常で意識しなくなったため、あっても記憶に残らないのだ。

 屋外での電話の風景は公衆電話から携帯電話へと変わった。それと同時に外で歩きながら電話する人を見ても、それはもう日常でしかない。歩きながら電話ができるのは実に便利だ。

 だが、街の片隅に立ち止まり携帯電話で話している人もよく見かける。歩いてもいいのに止まっている。公衆電話ではないのにその場に縛られている。そういう人に注目しよう。美人だ。道端に咲いた花だ。街のアクセントだ。

「立ち止まり電話」は「美人のもと」を増やすのではないだろうか。なぜか。「歩きながら電話」は他人に迷惑をかけることが多いことを知っているからではないだろうか。最近の交通事故には 「歩きながら電話」が関わっていることが多いし、「歩きながら電話さん」は実際に他人にぶつかることが多かったり、歩きながら公共の施設に入ってきて、そのままの大声でそこにいる人たちに迷惑をかけたり。

「歩きながらメールさん」も増えてきて、交差点などでトラブルを起こしている。

 携帯電話は便利だし、歩きながら使えることはとてもありがたい。しかし、それはそれなりに上手にこなさないと迷惑である。電話やメールは社会との調和を忘れ、自分だけの世界に入りやすい。他人から見られている意識が減っていく。そういう瞬間は「美人のもと」が減りやすい傾向にある。歩きながら使っても常に社会を見ていることが大事なのではないか。事実、上手な「歩きながら電話さん」も多くいて、それはそれで見ていて美しい。

 誰もが簡単に二宮尊徳のように本を読みながら歩けるわけではない。二宮尊徳を目指すのもいいし、できなければ「立ち止まり電話さん」になるべきだ。