木下庸子(きのした・ようこ)
横浜雙葉中学高等学校校長
横浜雙葉中学高等学校校長。横浜市生まれ。横浜雙葉高校、上智大学外国語学部イスパニア語学科卒業。筑波大学大学院地域研究研究科修士課程で中南米の研究を行い、ペルーのリマとクスコの大学に留学。修了後、「カトリック新聞」の記者に。1995年の阪神・淡路大震災の取材を最後に記者職を辞し、母校の社会科教員となる。2022年4月より現職。現在は宗教科を担当。
南米クスコで直面した貧富の差
――先生は横浜雙葉のご出身で、卒業後はどんな勉強をされたのですか。
木下 当時まだ中高にいらしたシスターの影響もあって、私は「平和のために働くこと」を夢見ていました。中高で英語とフランス語を学んだので、大学ではスペイン語を選び、大学院では中南米の地域研究を専攻し、国際関係の仕事を目指しました。
ある留学奨学金の選考面接で、他の応募者はロンドン大やハーバード大を希望する中、1人だけ南米の大学というのが面白いと合格したようで、2年弱滞在させていただきました。
――どちらの国に行かれたのですか。
木下 最初はペルーの首都リマに行って、アンデス文明について研究するため、博物館でデッサンし、砂漠で昔の土器の破片などを発掘調査していました。ところが、現地の人々を見ていると貧富の差が大きく、昔のことばかり研究していてよいのかと思うようになりました。貴重なアンデス文明の継承者であるインディオの人たちが貧しく、差別されていたためです。
そこで、途中から標高3400mの所にあるインカ帝国の古都クスコの大学に移りました。こちらで現地調査を行う中で多くの出会いがあり、人類学を学ぶ過程で、人が生きていく上で大切なことは何かを考えさせられました。それまでの私の価値観が、ここで大きく変わってしまうほどの影響を受けました。
余談ですが、大学が休みの間は南米の最南端までリュックを背負って旅したり、頼まれてガイドにもなりまして、マチュ・ピチュの遺跡には20回くらい行きました(笑)。
――帰国されてから大学院に戻られた。
木下 インディオ文化の持つ現代における意味について、修士論文を書きました。好評をいただきましたが、そろそろ社会に出て働きたいと思い、たまたま求人に載っていた小さな新聞社に応募して就職しました。
記者として10年ほど、教会が関わる人や支援する人を取材して全国を訪れました。すると、今度は日本社会の矛盾に目が行くようになりました。この経験も私を人間として成長させてくれました。
――それから教員になるのですか。
木下 阪神・淡路大震災が、記者として行った最後の取材でした。その少し前から、記事を通してよりもむしろ、人に会って直接伝えることが自分には合っている、特に、若い人と一緒に考えたいと思うようになりました。そこで、教員になろうと思いました。ちょうどその時、横浜雙葉で定年を迎える社会科の先生がいらして、その後任になることができました。
――さまざまな経験をされた先生の授業は面白かったんでしょうね。
木下 そうだと良いですね(笑)。教員としては回り道だったかもしれませんが、自分が高校時代に思った「平和のために働くこと」を直接実現できなくとも、生徒たちが卒業してさまざまな分野で活躍し、他者とともに世界とつながりながら、平和な未来を築くために活躍する姿に感謝する日々です。