武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではない?歴史の“新説”の有り余る根拠とはPhoto:PIXTA

武田信玄が造ったとされ、長く親しまれてきた「信玄堤」。だが実は、この堤防を信玄が造ったと言える根拠はかなりあやふやである。信玄が堤防を造った記録や設計図などは発見されていない。近年の研究では、壮大な治水システムを戦国時代に実現するのは難しかったことも分かっている。歴史ファンの夢を奪ってしまうかもしれないが、武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではないといえる根拠を詳しく解説する。(作家 黒田 涼)

歴史ファンにおなじみの「信玄堤」は
武田信玄が造ったものではなかった!?

 歴史ファンなら誰もが、山梨県甲斐市竜王にある「信玄堤」の名を聞いたことがあるだろう。その名の通り、武田信玄が造ったとされる堤防だ。しかし近年の研究では、信玄が本当にこの堤防を造ったとは言い切れないことが分かってきた。

 かくいう筆者も、武田信玄は「信玄堤」を造っていないと考えている。断言できるといってもいい。なぜなら「信玄堤」という名前自体が、江戸時代にできたものだからだ。あまりに夢のない話なので、信玄ファンに怒られるかもしれないが。

 冗談はさておき、信玄が生きていた16世紀の治水関係の記録には、この堤防だと思われる「竜王川除」という名前が登場する。もし信玄の時代に「信玄堤」があったとすれば、元々はこう呼ばれていたようだ。

 ただし前述の通り、「信玄堤」という名前が定着したのは、信玄の功績をたたえて世間に知らしめる動きが盛んになった江戸時代からである。

武田信玄が「信玄堤」の生みの親ではない?歴史の“新説”の有り余る根拠とは信玄堤公園。左の轍(わだち)のある場所が信玄時代に堤防が造られたと思われる場所。右が現代の堤防=山梨県甲斐市

 この「竜王川除」についての具体的な記録はというと、1560年の文書に「竜王川除に住んだものは税金を安くする」と書かれ、信玄の印が押されている。このことから、1560年以前に「竜王川除」という地域または構造物が存在していたことがわかる。

 また、信玄堤とされる場所に沿って竜王河原宿という集落があり、今も人々が暮らしている。この集落には信玄堤を守る役割があったとの伝承がある。先の信玄の文書(押印の記録)を裏付ける内容だ。

 しかし、いわゆる「信玄堤」と思われるものについての同時代史料はこれだけである。信玄が堤防を造った記録や、設計図などは見つかっていない。「竜王川除」が何かを示す具体的な史料も一切ない。

 これらの点からは、武田信玄が「信玄堤」を造った、という根拠が意外とあやふやなことがわかる。他にも、この治水システムを戦国時代に実現するのは難しかったと言える理由を列挙していこう。