「越後の龍」「義の人」と呼ばれ、武に秀でて忠義に厚い武将だったとされる上杉謙信。だがその一方で、「利」を得る才覚にも恵まれ、交易を通じて莫大な利益を生み出していた「裏の顔」はあまり知られていない。謙信は越後の中心部ではなく、あえて“端”に城を構えていたが、この不思議な戦略にも、領地から効率よく利益を得るための狙いが隠されていた。その実態を詳しく解説する。(作家 黒田 涼)
「義の人」上杉謙信は
実は「利の人」だった?
「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信。しかし越後(今の新潟県)の地図を見ると、謙信の居城だった春日山城は“越後の端”だったことが分かる。どうして、広々とした越後の真ん中に城を構えなかったのだろうか。
実はそこには、多くの人が思い浮かべる「義の人」謙信像とは異なる、「利」を追求して貿易立国・越後をしたたかに統治した謙信ならではの狙いが反映されている。
名城として知られる謙信の居城・春日山城は、今の新潟県上越市にある。かつて直江津、高田と呼ばれた二つの市が合併してできた市だ。新潟県の西端は糸魚川市で、上越市はその東隣だ。
春日山城跡からの展望は実に素晴らしい。直江津港は手が届くように近く、海の向こうには佐渡島が浮かぶ。南に目を転じれば徳川時代の高田城も見える。その間に高田平野が広がり、この地域を支配するには実にいい立地だ。
しかし、である。眺めは素晴らしいものの、これだけではいかにも狭い。
織田信長が拠点とした岐阜城から眺望する、かすんで見えない先まで広がる濃尾平野や、徳川家康の命で建てられた甲府城から望む甲府盆地の広さと比べ、高田平野は狭すぎる。
根拠地がこの程度の領域で、謙信はどうやって武名をとどろかせたのだろうか。