メイヤスーとも異なる「新実在論」とは何か?

「新実在論」を理解するために、ガブリエルが提示した具体的な例を取り上げてみましょう。彼は次のようなシナリオを語っています。

アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。

まず古い実在論(これをガブリエルは形而上学とも呼びます)によれば、唯一存在するのはベスビオス山だけです。これが、ある時はソレントから、別のときはナポリから、偶然に見られるわけです。

「構築主義」の立場では、三つの対象、つまり「アストリッドにとってのベスビオス山」「あなたのベスビオス山」「私のベスビオス山」だけがあります。それを超えて、対象や物それ自体があるわけではありません。

それに対して、ガブリエルが提唱する「新実在論」は、少なくとも、四つの対象が存在すると考えます。

(1)ベスビオス山
(2)ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)
(3)ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)
(4)ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)

彼は、これらすべてが存在すると考えるだけでなく、さらには「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。

ガブリエルによると、一方の古い実在論は「見る人のいない世界」だけを、他方の構築主義は「見る人の世界」だけを、それぞれ現実と見なしています。それに対して、ガブリエルは次のように述べて、自らの「新実在論」を正当化しています。「世界は、見る人のいない世界だけでもなければ、見る人の世界だけでもない。これが新実在論である」。

こうして、ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです。その点では、「実在論」の一般的なイメージとは、いささか離れていると言えます。

それでは、このように存在する対象を広げることによって、ガブリエルは何を意図しているのでしょうか。それについては、2015年に出版された『私(自我)は脳ではない─21世紀のための精神哲学』のタイトルが示唆しています。その本でガブリエルは、精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判しています。そうした「自然主義」によれば、存在するのは、物理的な物やその過程だけになり、それ以外は独自の意味をもたなくなります。

こうした動きに対して、ガブリエルの「新実在論」は原理的な次元から再考しようとしているのです。

実在論といったとき、もしかしたら、科学的な対象だけを存在すると見なす「自然主義」が想定されるかもしれません。しかし、ガブリエルが構想する「新実在論」は、そうした科学的な宇宙だけでなく、心(精神)の固有の働きをも肯定するものとなっています。