なり手がいないのである。児玉氏は原子力の専門家ではない。重工の常務だった。退社する直前に副社長に昇格した。「箔付け」である。常務が理事長になるのでは具合が悪かったのだろう。「よそ者」がトップに座っても現場は変わらず、保安検査で重要な配管で点検不備が見つかった。「保安検査官もうんざりするぐらいの状況にある」と規制委の田中俊一委員長に叱責を受けた。

 人事を受けた児玉氏に責任はある。それ以上に、怒られ役か連絡役のような人を理事長に据えた文科省の責任である。当時は下村博文大臣だった。人事だけではない。文科省は宿題である「機構に代わる運営主体」を決められなかった。

 官も民も厄介者のもんじゅに関わりたくない。口では「核燃サイクル推進」と言いながら、みな腰が引けていた。無責任体制の中でもんじゅは朽ちて行った。

 再稼働させるのには5800億円とか8000億円とかが必要とされるという。もんじゅの建設が始まったのは1985年。当時としては最新技術でも30年たち、すでに陳腐化している。

核燃サイクルの断末魔
結論ありきの政治の無策

 見捨てるしかないと分かっていたのに、決断できなかったのは政治の責任だ。

 にっちもさっちも行かなくなり、地元に打診もなくいきなり「廃炉」である。福井県知事が怒るのも無理はない。手順というものがある。

 核燃サイクルを推進するなら、もんじゅ廃炉後の手立てを付けておく必要がある。すでに48トン溜まったプルトニウムの使い道を含め、これから青森県・六ヶ所村の再処理工場が稼働して産出される新たなプルトニウムをどうするか。その六ヶ所工場も事故続きでもんじゅの二の舞になる恐れさえある。

 核燃サイクルが必要なのか。もんじゅの廃炉は、ゼロから考え直す好機だった。

 先進国では原発離れが起きている。もんじゅや六ヶ所に注ぐカネを自然エネルギーの研究開発に向ければ新たなイノベーションが起こるだろう。自然エネルギーは原発や核燃サイクルより、製造・販売に加わる産業のすそ野が広い。20世紀の遺物のような原発を途上国に売って多国籍企業を利する産業政策がいいのか。政治家は真剣に考えてほしい。

 ところが政権は、経産官僚に丸投げしてしまった。安倍首相の側近である今井尚哉秘書官と世耕弘成経産大臣のラインで決まったというが、フランスの新型高速炉計画の実証炉(ASTRID)との共同開発が唐突に浮上した。同計画はまだ基本設計の段階だ。もんじゅが廃炉なら、何かで埋めなければならない、というだけで日仏共同開発へと動くほど原子力政策は軽いものなのか。