「……!ちょっといきなり、何そのドS発言!」

「それが永劫回帰だ。
 さっきのスロットの話を思い出せ、確率論的に考えると、またいつか回り回って、同じことは繰り返されるのだ。
 いまもし、辛いことを乗り越えたとしても、また苦しみや悲しみは襲ってくる。
 また同じことの繰り返しだ」

「ちょっとそんな、気が滅入ること言わないでよ。
 せっかく受け止めようと自分の中で見切りをつけているのに……。
 しかもまた辛いことが繰り返されるって、絶対とはわかんないじゃん。ニーチェのその考え方が絶対とは限らないでしょ?さっきも言ったけど、非科学的だし、おとぎ話だよ、そんなの」

「そうだ、この話を絶対的に信じろと言っているのではない。
 むしろ私の作ったフィクションだと思ってもらってもかまわない」

「フィクション?そんなあっさりと……。じゃあ、やっぱり信じる必要はないじゃん」

「それは違うぞ、アリサ。私が言っているのは、たとえ辛い経験がまた襲ってこようとも、永遠に繰り返されようとも、生きることを“無駄”だととらえて、無気力になる必要はない。と言っているのだ」

「無気力になる必要はない?どういうこと?」

「つまりだ、せっかく乗り越えた辛いことや苦しいことが繰り返される可能性があると思うと、どうだろう。
  “どうせ頑張っても無駄。しょうもない”と斜に構え、無気力になってしまうだろ?
 努力して乗り越えても、また何度も同じ辛いことが襲ってくるなら、もうどうでもええわ。とニヒルになるのが普通ではないだろうか?」

「そうだね。何回やっても辛いことが繰り返されて、挫折するなら、途中で心が折れちゃうよね」

「そうだ、何度も挫折を繰り返すと、心が折れたり、はたまた心が腐ったりするものだ。そうしてニヒルに斜に構えてものごとを見るようになってしまう、“どうせ無駄”という気持ちに心が蝕まれてしまうものだ」

「言っていることはすごくわかるよ。
 辛いことから立ち直っても、また何度もそれが繰り返されたり、努力が無駄になったり、裏切られたりしたらどんどん無気力になっていくよね。
 部活のことも家族のこともまさにそうだよ」

「部活?」

「うん、私ずっと陸上やっててさ、その推薦で今の高校入ったんだけど去年の秋季大会直前に怪我してみんなに迷惑かけちゃったんだ。ランナーズニーってのになっちゃって。で、完治するよう、頑張ったんだけど、結局前みたいには走れなくてさ。寮に住んでたけど、部活メンバーと会うのもだんだん気まずくなって部活やめて、寮も出たんだよね」

「そうか。それは辛い出来事だったな」

「うん、いまはもうだいぶ立ち直ったけどその時はいろんなことが面倒くさいというか、もうどうでもいいかなっていう風になってたかな、まさにニヒル的だよね」

「そうだな、ニヒルになりすぎると、自分の人生にもかかわらず、自分の人生を軽んじて生きてしまうことになるのだ。
 自分が人生の主役だ!という意識が徐々に薄れ、ただたれ流すような人生だな」

「そこまではっきり言われると辛いものがあるね、まさにそんな風に思ってたし」

「ではアリサどうすればいいと思う?」

「うーん、ちょっとわからないなあ、極力考えないようにするくらいしか出来なかったからなあ」

「そうか、私は最終的に“永劫回帰を受け入れる”ことで道は開けるのではないかと考える。
 そして、この“永劫回帰を受け入れる”ことを“運命愛”と呼んでいる」

「永劫回帰を受け入れる?」

「そうだ。辛いことがあったり、嫌なことがあっても、“しかたなくこんな状況に置かれている、自分はかわいそうなやつだ”と思わないことだ。ニヒルに拍車がかかってしまうからな」

「じゃあ、どうするの?」

「辛いことがあったり、苛酷な状況に置かれても“これは私が欲したことだ”と思ってみることだ」

(つづく)

【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第10回】アリサ安心しろ、その辛いことは、乗り越えても、乗り越えても、必ずまた繰り返されるから

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある