17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会って、哲学のことを考え始めます。
そしてお休みの土曜日、またまたやってきたニーチェは、「力への意志」とは何か話しはじめるのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第17回めです。

力への意志とは、自分の中にある松岡修造のような強いガッツだ

「そっか、そういう風に考えたことなかったな」

「世界にはさまざまなパワーが渦巻いているのだ。
 これは別にスピリチュアルなことを信仰しろと言っているわけではない。
 例えば月の引力による潮の満ち引きもそうだ。海水は月の引力に引っぱられ、水位を変える。しかし、海水が、地上から根こそぎ月に移動することはない。そして木々が、土から抜けて月に引っぱられることもない。地球の重力と月の引力が拮抗した結果、このような結果になっているのだ。
 このように、さまざまな出来事、現象、結果は“力への意志”がせめぎ合った末に落ち着いたポイントにすぎないのだ。“力への意志”がせめぎ合った結果にすぎないので、自分にとって何か悪い結果が生まれたような時に、“こうなったのはあいつのせいだ”とか“○○が悪かったからこんなことになったんだ”と他人のせいにするのは、見当違いなのだ」

「それは、嫌なことがあっても力への意志のせいだから、しょうがないって受け入れろってこと?」

「そうだな、前に“永劫回帰”の話をしたことを覚えているか?人生でどんな辛いことが起ころうが、嫌な出来事に打ちのめされず受け入れるほかないだろう。出来ることなら“自分が欲したんだ”と思えることだ。
 そして、この話のポイントはもうひとつある。それは力をパワーダウンさせるな、恥じるな。ということだ」

 ニーチェはガッツポーズをとり、力強く語る。

「力をパワーダウン?恥じるな?」

「そうだ。さきほど話したように、力への意志とは、もっと強くなりたい!自分の力をマックスパワーで発揮したい!という意志である。つまり、己を超えて、己の可能性へと無限にチャレンジしたい!という意志である。
力への意志は、自分の中にある松岡修造、もしくは本田圭佑のような強いガッツだ」

「松岡修造、本田圭佑?」

「そうだ、アリサ。どんな感じか伝わったかな」

「うーん。二人共メンタルがめちゃくちゃ強いってイメージだけど、そういうこと?」

「まあ、そうだな。人は報われないことがあったり、理不尽な出来事に見舞われると徐々に“ルサンチマン”と化してしまうという話をしただろう。“どうせ頑張っても無駄”とか“世の中くだらねえ”とか、どんどんニヒルな考えになってきてしまう。スター・ウォーズ的にいえばフォースが完全にダークサイドに堕ちてしまうということだな。
 ここで注意してもらいたいのだが、私は“頑張りは必ず報われる!”とか“仲間との絆こそ最高の宝物だ”なんて一切思っていない。はっきり言って“頑張ればいつか報われる!”や“仲間こそ最高の宝物”なんて意見は、まやかしにしかすぎないし、弱者が自分を正当化しているようにしか思えないからな。
 私なりの言葉で言うならば『気持ちのよい意見は真とみなされるのだ』。
 私たちは、感動的な意見や、自分の心に響いた意見など、感動の先にあるものが、真実で正しいものだと断定しがちだが、そうだとは限らない。
それは自分にとって都合のよい意見を選んでいるだけにすぎない場合もあるのだから」

「それは、どういうこと?」

「感動したから、よいもの。だとは限らないということだ。例えば素晴らしい理念を唱える社長がいるとしよう。そして、アリサがその社長の言葉に感動したとする。
 すると、感動したから、この人は素晴らしい人だ!と思いこむのは見当違いだということ。感動の先にあるものは、“いいものに違いない!”と思いがちだが、感動の先にあるものが“いいもの”とは限らないのだ。
 ただ自分にとって聴き心地のいい言葉を“これこそが真実なんだ”と思いこんで感動しているだけというパターンもあるだろう。
 感動は美しいものだが、感動の先にあるものも美しいかどうかなんてわからないので、安直に信じすぎるのは危険な行為でもあるのだ。独裁者のスピーチ、ブラック企業の社長の掲げる理念自体は素晴らしいものだったりするだろう」

「そっか。感動するっていうのは、心が震えることだから、すごく素敵なことだと思ってた」

「感動のすべてを否定するわけではないが、人は自分にとって都合のいい、聴き心地のいい言葉に対して感動を覚える。ということもあるということだ。
 同時に、自分にとって都合のいい言葉に耳を傾けるだけで、現状と向き合っていないということもあるだろう」

「そっか、一口に感動っていっても、いろんな動機の感動があるんだね」

「そうだ。感動とは、不透明なものでもあるのだ。
 しかし、その中で、追い求めるべき感動もある。これはさっき話した、自分のパワーをフルに最大化させていく“力への意志”とも通じるのだが、己の可能性が広がった時に感じる感動、これは生きていく上で追求していくべき感動である」

「自分の可能性が広がった時に感じる感動?」

「そうだ。絶えず、己の可能性に挑戦しつづけて、自分の可能性が広がった時にこそ、感動、いや至高の喜びがあると。アリサにも経験があるのではないだろうか?己の可能性に挑戦しつづけて、自分の可能性が広がった経験。
 そう、例えば自転車だ。小さい頃、自転車の練習をしただろう。はじめは補助輪をつけて、次に誰かに後ろを持ってもらって。そして最終的に自分一人で自転車に乗れた時。
 その時どう思っただろうか?心にたくさんの光が舞いこんできたような喜びを感じなかったか?
 自分にも出来るんだ!頑張ってきて本当によかった。私は自転車に乗れるようになれたんだ!と心の奥がプルプルと震えるような温かな喜びだ。
 自分の可能性をどんどん広げていくことは至高の喜びを生むのだ」

(つづく)

至高の喜びを生むものとは?【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第17回】

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある