小栗を「明治の父」と称した
司馬遼太郎
我が国最初の株式会社といえば、坂本龍馬の亀山社中という全く根拠のない俗説が根深く生きているが、典型的な“死の商人”として幕末日本の殺し合いを演出したグラバー商会の単なる下請けとして薩摩と長州の間を、密輸入した武器を中心とした物品を運んでいただけの亀山社中の実態については、拙著『大西郷という虚像』で述べた通りである。
明治維新至上主義者といってもいい司馬遼太郎氏は、幕臣小栗を称して「明治の父」というが、確かに小栗は徳川という一つの政権の枠を超えた国家人であった。
明治新政府の重鎮にして新政府の中では唯一といえるバランス感覚に秀でた政治家であった大隈重信は、
「我々の行っている近代化というものは、小栗上野介の模倣に過ぎない」
と公言して憚(はばから)なかったが、これは大隈の妻が小栗の親族であることに因(よ)る身びいきの言などではない。
明治新政府の中心人物の一人に育った大隈は幼少期に小栗家に同居しており、小栗に感化されて育った一面があるとみるべきであろう。
東郷平八郎が
戦後自邸に小栗の遺族を呼んだ理由
日露戦争時の聯合(れんごう)艦隊司令長官東郷平八郎が、戦後自邸に小栗の遺族を招いて横須賀造船所建設について謝意を述べたことも既述したが、幕臣大鳥圭介も、
「小栗の屋敷へ行くといつも世界情勢のことばかり聞いてきた」
と証言しており、小栗の先見性を示す事例は多々存在する。
結局、明治の近代化などというが、それはほとんど小栗を中心とした幕臣たちの描いていた青写真に拠(よ)るものであり、幕府の残したインフラや流通、通信などを含む社会システムに頼ったものであり、何よりも江戸期庶民の高い教育レベルに支えられたものであって、決定的には幕臣の政権参加によって可能となったものであったのだ。