それによると、爆発から収束までの状況はこうなっている。本稿では事故の原因には触れない。

1日目(1986年4月26日)
・原子炉の暴走後、爆発が2回起きた
・建屋の上部が吹き飛ぶ
・外部に高温の核燃料、黒鉛(ソ連型原子炉の冷却材)が飛散
・発電所施設内の30か所以上で火災発生
・1時30分、近隣の消防隊が施設内の火災を鎮火したが、原子炉の黒鉛火災はじまる。放射性物質の大規模な飛散続く

2日目(4月27日)
・軍のヘリコプターで中性子を抑えるホウ酸40トン、燃焼抑制用の石灰岩800トン、放出抑制用の鉛2400トン、粘土と砂など、合計5000トンを原子炉へ投下する作業がはじまる
・2日目に放射性物質の放出量は3分の1に減少

3日目-6日目(4月28日-5月1日)
・投下作業が続き、放出量は抑制、5日目と6日目には初日の6分の1程度まで減少

7日目(5月2日)
・放出量が再び増加。原子炉を5000トンの鉛などで埋めたため、内部の核分裂生成物の崩壊熱と黒鉛燃焼で核燃料の温度が再び上昇し、放出が増大する

8日目(5月3日)
・溶融した核燃料と水の接触による水蒸気爆発を避けるため、サプレッションプールの水抜きをはじめる。

9日目(5月4日)
・放射性物質の放出増加が続く。初日の2分の1まで増加

10日目(5月5日)
・溶融した核燃料の冷却のため、原子炉下部へ窒素を注入
・急激に放出量が低下

 このように、窒素注入後の10日目に大量放出は収束している。もちろん、この後も放射性物質は漏出しており、ほぼ密封できたのは約40万立方メートルの強化コンクリートによる石棺が完成した11月のことだった。

 西欧諸国まで汚染した放射性物質の大量放出は第1日から3日間だった。そのあとは必死の作業でなんとか10日目におさえこんだことがわかる。