なぜ、和訳も不要なの?

 appleは「りんご」。
 そうです、そのとおりです。

 でも、アメリカのバーモント州の果樹園で取れたりんごと、日本の青森のりんご農家のりんごは、別物です。

 しかし、私たち人類は、本来別物である2つのもの、りんごとappleに、共通点となるエッセンスを探し出すことに成功しました!

 青森のりんごとバーモントのappleにある、誰が聞いても見ても、それとわかる共通点、それはなあんだ?

 それは、実物がその場になくても、頭に共通のイメージとして浮かぶエッセンス的な不思議な存在のことです。

 それが、apple=りんご、なのです。

 ということは、逆に、実物は、それぞれ異なってもかまわないわけです。

 だったら、英文を読むと、いつも学校では和訳させられていましたが、そんなことしなくてもいいのではないか?

 りんごと appleが同じものでありながらも、異なる2つのものでもあるなら、1万語の英語で書かれた文章中に、いったいいくつの言葉の実物が言葉の放つイメージとかけ離れているのでしょう!

 それなら、英語は英語でそのまま読んで、イメージを膨らませましょう。
 日本語に訳しても、どうせ別物になってしまうのですから。

 それに、訳すのは時間のムダ!
 私みたいに訳すのが仕事の一部の人間以外は、そんな面倒くさいことはしなくていいのです。