前回のコラムについて多くの方から批判的なご意見をいただき、言いたかったことの真意がうまく伝わっていなかったことに気づきました。私の言葉足らずが招いたことです。
これまでいくつかの雑誌や集会で表明してきたように、私自身は脱原発の立場にあり、小出裕章氏の著作、ご発言をほぼ全面的に信頼し、これまでのご活動にも深い尊敬の念を抱いています。前回のコラムが、小出氏のお仕事の価値を否定する内容に受け取られるものだったとしたら、小出氏ならびに読者のみなさまには本当に申し訳なく思います。心からおわびいたします。
ここからは謝罪からは少し離れ、私が伝えたかったことを補足させていただきます。
とても個人的な話になるので、うまく補足になるか、さらに批判を招くものか、自信がないのですが、よろしければお読みください。
原発事故が発生して以来、放射線医学の専門家でもない私ですが、なんとか精神医学という自分の専門性を生かして、原発の危険性や脱原発の必要性を訴えることができないかと、ずっと考えてきました。
しかし、そう考えて原発について情報を集めたり基礎的な知識を学んだりしようとすればするほど、自分の関心が本質からずれて行ってしまうのを感じていました。つまり、原発問題を純粋に考えていたところ、この原発問題を含む領域の広さにひとつの小宇宙を感じたひとりは、他ならぬ私だったのです。この当初の使命感を超えて関心を示している自分の心理は何なのか。これが出発点でした。
実は、まわりの人たちからも同様の話――つまり、あの事故以来、いつもの自分ではいられなくなったということ――をいくつも聞きました。
このあたりはうまく説明する言葉をまだ見つけられずにいるのですが、どうもそれは、現実としての原発事故や脱原発とはまた位相の違う世界で起きている“心の問題”のようにも思われました。
これは、いったい何なのか。原発問題の恐怖や不安といった現実の問題を超えて存在する、「原発問題がもたらす心の変化」とは何なのか。