英語・ペラペラ信仰は
もう捨てよう

 なぜ、日本人は英語がペラペラになることにあこがれ続けているのに、一度もその レベルに到達しないのでしょうか。
 日本だけでなくドイツでも活躍する多和田葉子さんの著書『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』(岩波書店)から抜粋してみます。

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日本人が外国語と接する時には特にその言語を自分にとってどういう意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多いように思う。すると、上手い、下手だけが問題になってしまう。(略)誰が上手で誰が下手かということが確実に言えるということは、それを決定する権威が自分たちではなく、どこか「外部の上の方」にあるということである。その権威は日本で抽象化された「西洋人」の偶像であり、その権威が、自分の言葉が「上手」かどうかを決めてくれる、という発想である。

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 日本人があこがれる「英語ペラペラ」は、「西洋人そのもの」になった自分の英語です。
 それは「まったくの幻想」で、不可能な目標設定なのです。
 英語ペラペラの条件は、英語圏の西洋人であるだけでは無理です。

 内気でオタク的な西洋人はペラペラしゃべらないからです。
 そうなると、
 コミュ力があり、
 社交的オープンマインドで、
 あらゆる話題に長けていて、
 人の意見を上手に聞けて、
 そつなく自分もアピールできて、
 会話を途切れさせない話術の持ち主で、
 と続きます。
 これがいわゆる「英語ペラペラ」人間の正体です。

 そんな池上彰さんのような人が、西洋人になって英語をペラペラしゃべっている「どこにもいない」人間を目標に設定しているがゆえに、「英語ペラペラ」には一生なれないわけです。

 また、日本語ペラペラで日本語ネイティブの全国すべての高校生が、東大入試の国語の問題が解けるわけではないという当たり前の現実があるにもかかわらず、英語になると、話せて聞ければ、難解な読み書きもスラスラできるという大いなる誤解が存在しています。

 日常会話は英語ペラペラでも、すべてのネイティブが難しい本を読んだり、すごいプレゼンができたり、トップ校に入れるわけではありません。
 そこには、ペラペラとは別の能力が、要求されるわけです。

 日本人は一刻も早く「英語ペラペラ信仰」から脱却する必要があります。
 問題はペラペラではなく、話す中身なのですから。