純粋培養されてきた経営者の思考パターンが
世界に取り残されているのではないか 

 こうした経営陣の多様性のなさ、すなわち同質性の高さが、構造改革を拒んでいるのではないだろうか。わが国企業の経営陣は青田買いで採用され、そのまま年功序列で純粋培養された高齢の男性が主な担い手となっている。こうした役員構成はゲームのルールが誰にでも明らかな時期(典型は20世紀後半の高度成長期)には滅法強いが、米ソの冷戦が終結し、中国やインドが市場経済に参入してきて、ゲームのルールがそれまでとは本質的に異なるようになった90年代以降の大変革期には、なかなか対処しきれないのではないか。すなわち、年功序列社会で固く培われた同士愛的な成功体験が目をくもらせているのである。

 象徴的な一例を上げよう。円高の都度、財界のトップは市場介入を当局に強く要請している。為替の自由化が始まった80年代ならともかく、それから30年近くが経った現在でも(しかも上場企業は11年3月期には営業利益の8割を海外で稼ぎ出しているのである)、税金によるFX(市場介入の実態)を財界のトップが当局に求めているのである。この30年間、為替の変動について何も学ばなかったと言うのだろうか。

 また、上場企業はこの6月末で62兆円の手元資金を有しているという(8月21日日経朝刊)。これだけの手金がありながら、たとえば円高を利用して外国の企業を買収する等、なぜ自ら積極的に動こうとしないのだろうか。

 為替の自由化から30年近くの時間を要しながら、今に至ってもお上に税金でのFXを要請するような諸外国には例を見ない経営トップの思考パターン(高度成長期とまったく変わらない精神構造のあり方)こそが、失われた15年をもたらした最大の元凶ではないのだろうか。そうであれば、国をあげて、リーダー層の多様化を図る以外に道はない。

 このように考えてみると、この15年間の間に真に失われたのは、グローバル経済の大きな変化に対応して、企業の体質を抜本から構造改革するための貴重な時間だったのではないか。とどのつまり、わが国は時間との競争に敗れたのである。

 この原稿が開示される頃には、恐らく新しい首相が決定しているものと思われるが、政界の人材不足だけが問題なわけでは決してない。企業社会も病巣は同根なのだ。いずれにせよ、失われた15年のきちんとした総括なくして、日本の新生はあり得ない。また、それは、国や企業だけの仕事では決してない。世界の三層構造の中では、私たち市民の仕事でもあるのだ。残された時間は多くはない。失われた15年を、失われた20年にしないためには、私たち市民がそれぞれの持ち場で声を上げなければならない。

(文中意見に係る部分はすべて筆者の個人的見解である。)