迷惑施設は困るから引き受けないでは何も進まない

 いわゆる「迷惑施設」と呼ばれるものには、火葬場、墓地、刑務所、障害者施設などがあります。こうした施設が近所にできるかと思うと、人はいろいろなことを心配します。自分の家の資産価値が下がる。騒音や匂いはあるのか。さらに、最も気がかりなのは犯罪の問題です。

 かつて私もお手伝いしたことがありますが、精神障害を持った人の作業所を作ろうとすると、必ずと言っていいほど反対運動が起こります。

 反対派の人から、必ず「犯罪が起こる確率はゼロなんですね?」と聞かれます。その質問には、私たちも「ゼロではない」としか答えようがありません。そのときは、こんなお話をします。

「あなたの隣にいる人が、突然犯罪を起こす可能性もゼロではありません。それが起こる確率と、精神障害を持った方が犯罪を起こす確率を比較した場合、障害を持つ人が犯罪を起こす確率の方が低いのです」

 これで納得していただけるとは限りませんが、生きているということは、必ずリスクがつきまとうものだということをお伝えしています。

 15年くらい前までは、こういうことに対して内心反対したいと思っていたとしても「反対してはいけないよね」という躊躇も見られました。こころの中では困ると思っていても、それを声を大にしていて主張するのが憚られ、多かれ少なかれ協力していこうとする姿勢が見られたものです。

 しかし最近では、遠慮なんかしていられないとばかりに「犯罪が起こったらどうする」「子どもを守るため」というストレートな反対運動が起こることが多いです。

 痛みはみんなで分け合う。必要な物はみんなで引き受け合う。頭ではわかっても、それを納得するのは容易ではありません。よりによってなぜ私のところなのか。そう考えてしまうのが人間というものです。

「社会的弱者は絶対に守られるべきだ」
 「NIMBYという態度は絶対にやめるべきだ」

 そんなことを声高に主張するつもりはありません。私が申し上げたいのは、震災から半年を迎えようとするいま、私たちの姿勢が問われているということです。