がんばってしまうのは大ケガのもとでもある

 痛恨のエピソードがあります。
 かつて、私はカニかまぼこなどすり身製品の製造販売に力を入れていました。
 この事業に着手するきっかけは向こうからやってきました。日本のすり身加工のトップ企業が、円高で採算が悪化したヨーロッパ向けの商品を加工する工場を東南アジアにつくることを計画。調査した結果、私にアプローチしてきたのです。

 これは、私にとって興味ある提案でした。というのは、私には、ヨーロッパ市場に対する関心があったからです。当時、東南アジアで製造してヨーロッパに輸出できる商品はほとんどありませんでした。特に加工食品は皆無。ところが、その企業の製品はヨーロッパ市場では人気があり、テクスケムのヨーロッパ進出への足掛かりにできるかもしれない、という希望を持ったのです。

 いま思えば、「希望」といったフワフワしたもので、事業投資を決断したことがそもそもの間違いだったのだと思います。判断に甘さがあり、それがこの事業を泥沼のような状態に陥らせる原因になったのです。

 まず第一に、パートナー企業に対する見極めが甘かった。
 合弁事業を始めるにあたって、当初はこちらが30%、先方が70%の出資比率でスタートしました。しかし財務状況がよくなかったのでしょう、工場建設中に「うちはもうこれ以上お金を出せない」と言い始めました。

 聞くと、こちらが70%、先方が30%にしたいと言います。それでは、経営責任が完全にこちらに移ってしまいます。強い懸念を覚えましたが、すでに工場建設は始まっており、機械設備等も発注した後なので、今さらプロジェクトの中止はできないため、やむなく応諾。これが大失敗でした。先方はその後も財務的負担に応じず、いつの間にか7:3だった出資比率を8:2、9:1とせざるを得なくなってしまいました。当方の資金負担が膨れ上がってしまったのです。

 しかも、事業をスタートさせてからもトラブルが連発。まず、技術移転。相手企業は日本では非常にレベルの高い製品をつくっていましたが、その技術を海外に移転するノウハウはもっていませんでした。

 いや、私自身が技術移転の難しさを甘くみていたのです。私はしかるべき製造設備を導入して、技術指導を受ければ大丈夫だと思い込んでいました。しかし、日本の工場には、すり身をつくって20~30年のベテラン従業員がたくさんいて、彼らの技能があってはじめて品質の高いすり身をつくることができるのです。マレーシアの現地の人に技術指導はできても、技能を伝えられる人がいない。だから、不良品率が高すぎて赤字を垂れ流す状態に陥ってしまったのです。

 技能習得にかかった時間は5年。この間、垂れ流していた赤字を埋めるために増資も強いられました。しかも、ようやく技能習得ができて経営が安定し始めた矢先に、すり身のマーケットそのものが崩壊し始めました。というのは、アジアの他国の企業が安値の粗悪品を市場に投入し始めたからです。その結果、ヨーロッパの市場価格が暴落し、あくまでも品質にこだわった私たちの製品は価格競争力を失ってしまった。さらに、安かろう悪かろうの粗悪品に、ヨーロッパの消費者の愛想が尽きてしまい、商品そのものが売れなくなってしまったのです。

 遅くとも、この時点で失敗を認めるべきでした。

 しかし、当時50代でやる気満々だった私は、まだ挽回できるチャンスがあると思ってがんばってしまった。マーケットが壊れてしまったのですから、私ひとりの力でなんとかできるはずなどなかったのにもかかわらず……。結局、その後も10年ほど事業を継続。最終的には、EUとマレーシアの交渉により、マレーシアからヨーロッパへの水産加工物の輸出が停止されることが決定。完全に道が断たれてしまい、ようやく私は廃業の決断をしたのです。いわば、「天の声」が聞こえるまで、私はあきらめられなかったのです。

 これは私の人生のなかで、財務的に最大の傷を負った経験でした。反省点は多々ありますが、最大の反省点は往生際が悪かったこと。パートナー企業に不信感をもった時点、技能移転が難航した時点、マーケットが崩壊した時点など、いくつも撤退すべきポイントはあったのです。しかし、がんばってしまった。その結果、大きな傷を負ってしまったのです。あの失敗がなければ、テクスケムの歴史も変わっていたはずです。