「権力」とは恐ろしいものである

 なんらかの制裁は覚悟していました。
 しかし、「まさか上場停止まではしないだろう」という思いもありました。これは甘かった。権力とは恐ろしいものです。その直後、本当に前代未聞の上場停止になったのです。

 その通知が届いたときのことは、今もありありと思い出します。1996年11月下旬のある日の午後2時ごろのことです。それを聞いて、頭が真っ白になりました。何も考えられない、何をすればいいかもわからない。ただ、茫然と椅子に座っているだけ。心配した秘書が「大丈夫ですか?」と聞きに来たほどでした。ほんの一日前まで、上場前夜という高揚した雰囲気だった社内はシーンとして、沈鬱な状況に陥りました。

 結局、その日は何も手がつかないまま時間が過ぎました。
 夕方になって、市内のゴルフクラブに出かけることにしました。仕事を終えた地域の人たちが、ゴルフを楽しんだあと、一杯飲んで親交を深めたり情報交換したりする場所でした。「このまま会社にいても仕方がない。気分を変えよう」という気持ちでしたが、一方で、みんなに何と言われるだろうかという不安や恥ずかしさなどが入り交じった複雑な気分でした。しかし、このまま家に帰って妻と顔を合わせるのも恐かった。だから、意を決して出かけることにしたのです。

 ゴルフクラブのラウンジには、いつものように多くの人たちが集まって大声で談笑していました。私がドアを開けて中に入ると、それまで騒がしかった室内が一瞬で静まり返りました。私は、なるべくいつも通りに「グッド・イブニング」と挨拶をしましたが、顔は引きつっていたと思います。すると、親しいインド系ドクターの友人が近づいて来て私の肩に手をかけ、「お前、ひどい目に遭ったな」と言ってくれました。

 私は、「いやぁ、実は……」と顛末を話そうとしたのですが、言葉が出ません。彼は「小西、何も言う必要がない。わかってる、わかってる、わかってるよ」と言いながら、肩を何度も叩きました。その他の華僑系の友人たちも、「お前、かわいそうだったな。俺たちもわかってるからな」と声をかけてくれました。何も説明していないのに、みんなが私の手を握って「わかってるよ」と慰めてくれたのです。

 会社を上場するときに裏で何が行われているか、みんな知っていたのです。それに対して「ノー」と言ったのは私だけで、みんなは不本意ながらも要求を飲んでいたのです。もちろん、そんな話は一度もしたことはありませんでしたが、私の顔を見ただけで事情を察してくれたのでしょう。彼らの温かい対応にも助けられて、私は気持ちを切り替えることができました。そして、翌日から、「心に太陽をもて、唇に歌をもて」という言葉を支えに、ダメージコントロールに全力を集中。たいへんな苦労を強いられましたが、なんとか難局を乗り切ることができました。

 ただし、上場停止だけではなく制裁は課せられました。
 私が代表を務めている限りは、3年間にわたって、証券取引所を通じたM&Aや増資などの法人取引を禁止するというペナルティでした。3年ならばすぐに過ぎる。そう考えた私は黙ってこの制裁を受け入れました。これが10年であれば致命的でした。おそらく、ミスターXも、そこまで追い詰めたら私が何をするかわからない、と考えたのでしょう。敵も考えている、と思ったものです。

 しかし、私が受けた制裁はこれだけ。世間からは一切の制裁を受けませんでした。非難されたこともなければ、皮肉を言われたことすらありません。むしろ、周りに対する迷惑を最小限にする努力が評価されて、応援を買って出てくれる人々が現れたほどでした。

周囲からの「リスペクト」さえあれば生きていける

 これが、私の人生における最大のダメージでした。
 いまでもときどき想像します。もしも、あのときミスターXの要求に応えていたら、おそらく、その後の私の人生は大きく変わっただろう、と。歴史に「たら」は禁物ですが、私の人生はもう少し楽だったかもしれません。

 しかし、得たものもあります。周りの人々からのリスペクトです。
 上場停止から2ヶ月くらいたったころ、ペナン総督と主席大臣に招かれてお話する機会がありました。その席で、2人が私に「もう喋ってもいいだろう」と言いました。それまで、私は上場停止時に何があったのか、具体的には誰にも説明していませんでした。ウォール・ストリート・ジャーナルや日経新聞の記者が取材に来ましたが、私は一切話しませんでした。大問題になると思ったからです。

 しかし、ペナン州のトップの2人とは古い付き合いで、信頼できる人たちでした。「小西さんが話すことは誰にも言わない。われわれは真実を知りたい。なぜなら、あなたの会社はペナンの企業だからだ」。その言葉に誠意を感じた私は、すべてを話しました。

 語り終えると首席大臣は、私の目をじっと見つめながら、「なるほど。そんなことだろうとは思っていたが、そうか、実際にそういうことがあったのか……。よくわかった。それが本当のストーリーだ。話してくれてありがとう」と言いました。おそらく、彼らなりに相当の情報をすでにもっていたのでしょう。

 しばらくの沈黙ののち主席大臣は“I respct you.”と言いました。脅しに負けずスジを通したことについて、最大の敬意を表すると言ってくれたのです。総督はずっと黙っていましたが、彼の言葉に頷いていました。そして、「そのうち、君の名誉を回復しよう」と口にしました。私は、その気持ちだけで満足でした。お礼を述べて、その場を去りました。

 しかし、彼らはその言葉を実行しました。
 4年後の2000年に、州政府は私に州政府が出せる最高の名誉である「ダトスリ」という称号を叙勲。さらに、2007年にマレーシア連邦政府は民間人が受け取れる最高の称号である「タンスリ」を叙勲したのです。州政府も連邦政府も、これで完全に私の名誉を回復したわけです。これには驚きました。まさか、こんなかたちで名誉回復をしてもらえるとは思わなかったからです。それは、これまでの苦労が報われるようで、心の底からありがたいと思える瞬間でした。そして、周りの人々からのリスペクトさえあれば、生きていけるのだと改めて心に刻んだのです。