「おじ、おばの心理学」
──原作のおじさんも魅力的ですが、漫画版ではより自分に重ね合わせやすいキャラクターになっていますね。これは意図的に描き方を変えたのですか?
柿内 おっしゃるとおりで、漫画版のおじさんには親近感を持たせるよう意識しました。原作のように文章で読むと目立たないんですが、漫画にしたとき、おじさんの言葉がどうも説教くさくなっちゃって。これでは読者が反発するんじゃないかと、作画を担当した漫画家の羽賀翔一さんが繊細に感じ取ったんです。
古賀 なるほど。原作は自己啓発とは違う、いわば進歩的知識人の「啓蒙の書」だもんね。
柿内 はい。そのときに羽賀さんと共通のイメージとして持ったのが、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクとマーティの関係でした。年代も違う、友だちじゃない、師弟でもない……。そんな彼らの理想的な「斜めの関係」をコペル君とおじさんに持たせよう、と。
あと、羽賀さんは『嫌われる勇気』の挿絵を担当していたこともあって、アドラーの話もよくしました。……あ、言うまでもありませんが、羽賀さんの存在も2作の共通点ですね。
古賀 たしかに!羽賀さんの挿絵がよかったという感想も、よくいただくんですよ。
柿内 それで、『嫌われる勇気』を熟読していた羽賀さんと「子どもと大人は対等である」というアドラーの考え方を共有して、コペル君とおじさんの関係性ができあがっていったんです。
岸見 まさに、アドラー心理学は「おじ、おばの心理学」と言われることがあります。おじさん、おばさんは、親に比べてちょっと距離があるでしょう?たとえば子どもが学校に行かないと親は大騒動するけれど、おじさん、おばさんはそこまで動じない。「学校、行っていないんだって?」と、いい距離感で接することができます。親子のように近すぎもせず、かといって他人でもない。どんな関係の相手でもそういう距離感をとるのが、アドラーの教えです。
柿内 それ、羽賀さんが描いたコペル君とおじさんの関係そのものですよ。
古賀 おじさんはコペル君と対等で、一方的に啓蒙するわけじゃない。だから読者はおじさんの言葉を素直に聞けるし、おじさんにも肩入れできるわけだ。
柿内 あと、「おじさんの成長」も大事な要素だと思います。コペル君に刺激を受け、おじさんも変化し、自分の課題を乗り越えていく。これも原作にはない設定ですが、おじさんに共感しやすくなったんじゃないでしょうか。
こうしたおじさんのキャラクターやコペル君との関係性は、羽賀さんが自ら考え、生み出したものです。彼もコペル君やおじさんと同じように、この本を通して大きく成長したと思いますよ。
古賀 うん、羽賀さんの友だちだから言うけど、いちばんの課題だった画力も前よりうまくなったしね(笑)。
──やはり、羽賀さんならではの『君たちはどう生きるか』になっているんですね。
柿内 まず、羽賀さんは原作を読んだことがなかったので、「最初になにをどう感じたか大事にしてほしい」と言って本を渡しました。デビューから何年も経った20代後半というタイミングで、ヒット作もないまま漫画家としても岐路に立たされていて、ほとんど映画『ロッキー』のシルベスター・スタローンみたいな状態ですよ。そんな自分が漫画化するかもしれないという状態で、まさしく「お前はこれから、どう生きるんだ?」と問いかける本に出会う……。その「最初の感性」に従って、原作のどの部分を大切にしていくか決めていったんです。
古賀 ああ、その感覚、よくわかるなあ。『嫌われる勇気』を書くときも、アドラーの教えをすべて1冊に入れることはできないから、内容を取捨選択する必要がありました。そのときに僕が指針にしたのは、「はじめてアドラーに触れた20代の自分は、どこに揺さぶられたのか」。逆に言えば、そうではない部分は省こうと考えたんです。
具体的に言うと、『嫌われる勇気』で省いたのはアドラーの語る「教育」についての話です。20代の僕にとって、教育は切実な問題じゃなかったんですね。2作目の『幸せになる勇気』をつくるときには自分の会社もつくって、教育について真剣に考えるようになっていたのですが……。少なくとも若造だった自分は、アドラーの本を読みあさるなかで、教育に関しては飛ばし読みしていたところもあったでしょう。一方で、より切実な内容は何度も繰り返し読んでいた。その原点を見失わないように気をつけたのは、きっと羽賀さんと同じだと思います。