

ソーシャルゲームの別面が自尊感情補完ビジネスならば、任天堂のゲームは何か。それを考えるヒントが、任天堂の岩田聡社長の言葉の中にある。
「ゲームって『マリオ』に限らず、上手い人だけがエンディングを見られて、そうじゃない人は最初のクリボーみたいなものでやられるんですよ。プレイヤーがやられて、もうこんなのやってられないって思うんだけど『さぁ、もう一回』っていう声が頭の中で聞こえて、またやろうって。私はそのような構造のゲームを『体育会系』と呼んでいるんですが(笑)、そうやって何度もやっているうちに、経験値を自分の中に貯めていく構造が(宮本専務の作るソフトには)できあがっています」(『ゲーム業界の歩き方』より)
この言葉から筆者の仮説を立てると、任天堂のゲームは自己効力感補完ビジネスではないかと推測する。
自己効力感とは、「外界の事柄に対し、自分が何らかの働きかけをすることが可能であるという感覚」のことで、任天堂のゲームは自己効力感のうちの「達成の経験としての自己効力感」を感じやすいように思われるためだ。
「努力は報われる」という感情を強化されている、とでも言えばいいだろうか、だから「もう1回やってみよう」という気になる。
したがって、「任天堂はなぜ儲かるソーシャルゲームをやらないのか」という問いに対する筆者なりの答えを出すと、「任天堂がゲームを通じて提供しているものや、ユーザーが任天堂に期待するものが違うので、仮にやりたくてもやれない」ということになる。
ソーシャルゲームが自尊感情補完ビジネスで、任天堂のゲームが自己効力感補完ビジネスだという仮説が正しいとすれば、それはまさに前編で岩田社長が指摘した「クリエイティブの労力に対する対価ではない全然別の構造」がソーシャルゲームにはあると考えても、間違いではない。