発災時から一貫して深刻なのが「分断」です。被災地域は地域・場所によって被害の実態が大きく異なりました。避難した場所によって明暗をわけたこともありました。

 福島では、避難や賠償をめぐる線引き問題が深刻です。当時、20kmの外と内で避難の線引きをしました。わずかでも内側であれば強制避難、わずかでも外側であれば避難を免れました。また、放射線被ばくに伴う賠償でも、ある地域では満額もらえ、道をひとつ隔てた隣はもらえないというケースが発生しました。仮に境界線を25km に広げても、さらにその外をどうするかという議論が生まれます。そしてさらに境界線が広がっていき、最終的には地球全体が汚染地域になってしまいます。まさに、ソライティーズ・パラドックスです。

 そもそも、境界線を引いて、内と外を分けるという方法自体、近代国民国家システムが生みだした統治の手法だともいえます。たとえば領土です。国境線を引くことで領土の内と外を作り、国民と外国人を作りました。近代より以前は、不毛の土地や漁場でもない海にまで国境線の画定をうるさくはいいませんでした。国民と外国人とにわけ、国民には福祉を施し、納税はじめ義務を課す。学校も、児童・生徒・学生であるかないかが重要ですから、外と内の境界が生まれます。

 近代社会では、あらゆることに定義を定め、線引きをし、線の内側の人々に対して、法的な義務や権利を付与し、支援することで、統治がなされてきました。法律違反者には刑罰で対処するというシステムが明確化されるようになったのも近代といえます。それまで信用の源泉は、神との契約によって守る「God-based Confidence」でした。神が死後の世界を約束するから、代わりに神の教えを守りましょうという世界ですね。それが、1755年のリスボン大震災で大きく揺らぎ、近代化が始まります。

 フランス市民革命を経て、ナポレオン法典の登場によって契約ベースに変わっていきます。神の代わりに国家が国民の安全・生命と財産を保障する、その代わり、違反者には罰則(監獄送り)をあたえることによって、社会の秩序や社会の信用というものを創っていく。「Jail-based Confidence」ともいえるでしょう。

 今、近代のほころびとともに、このやり方が限界にきています。実は、境界は線ではなく、グラデーションであり、幅があります。文脈や状況に応じて変わります。白・黒つかないグラデーションに対して、罰則を課したり、特権を付与したりすることは、法治国家では難しく、法治によるガバナンスが、近年、効かなくなっています。