全国高校野球選手権大会、夏の甲子園の記念すべき100回大会は、過去最高の観客数100万人を動員するなど、大きな盛り上がりを見せた。金足農業の秋田県勢103年ぶりの決勝進出などがニュースとして大きく取り上げられるなど、国民的な関心度の高さを示した夏の甲子園だが、選手のプレーとは別に、大会運営の在り方や指導法など“大人”が関わる部分は大きな分岐点を迎えている。(文/小林信也)

青春ドラマに感動しているだけでいいのか?

甲子園の大会運営の在り方や指導法など“大人”が関わる部分は大きな分岐点を迎えています
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 高校野球、とりわけ“甲子園”は「1度負けたら終わり」、その刹那的な仕組みが大会にいっそうの感傷を与えている。世代を超えて、また野球経験の有無を越えて、国民が共有する“青春ドラマ”が生み出される。100回を記念するこの夏もまた、数々のドラマが生まれた。

 だが、この感傷を私たちは今後も受け入れ、同じような“青春ドラマ”を今後も生産し続けていいのだろうか? 私は、自ら高校野球に打ち込み、3年夏までの高校生活を野球中心に過ごした経験から、あえて疑問を投げかけたい。

 中学を卒業し、高校受験に合格し、子どもの頃からずっと憧れていた高校野球に身を投じて2ヵ月後には、早くもそこが自分の夢見ていた世界と違うと感じ始めた。そのときは、なぜ自分が苦しいのか、よく理解できなかった。ただ、練習場にいることに苦しさを感じ、一刻も早くグラウンドから逃げ出したかった。

 その理由が、練習の厳しさより、「心の自由が許されない息苦しさ」だったことを冷静に言語化できるようになったのは、それから30年以上も経ってからだった。多くの行動が、監督の指示と判断の下で行われる。自分の中に生まれる素朴なひらめきや発想は、まず打ち消され、上からの指示に従うことが基本とされる。

 投手だった私は、打者との駆け引きが何より好きだった。投手と打者の勝負には、球速や体格・体力を超えた、目に見えない優劣があった。決して球速のある投手ではなかったが、緩急の使い分け、打ち気を外す投球法で打者を手玉に取る面白さは言葉には表せない。時に、自分の想像を超える打力の持ち主と対峙し、打たれるはずがないと自信を持って投じたボールを楽々と弾き返される。それは、打者を打ち取った以上の感激だった。