なぜ子ども自身の声が
真摯に聴かれないのか

 親から虐待を受けている子どもの多くは、身体の痛みや飢えや暑さや寒さや心の痛みに苦しみながらも、親に愛着を抱き、「愛してもらえるようになりたい」という希望を抱き続けている。暴行や「食事を与えない」といった行為の引き金になるのは、子ども自身の落ち度や悪事だと、親の論理の中ではそうなっている。

 だから、たとえば、親に「今の『はい』という返事が反抗的だった」という理由で殴られる幼児は、「殴られないためには、親が喜ぶ言い方を心がけなくては」と考え、精一杯の努力を重ねるものだ。そのことは、今年3月に目黒区で亡くなった5歳の女児が残したメモの内容からも明らかだ。

「もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」

 実際のところ、子どもが反抗的であろうがなかろうが、親は暴力を振るうことができる。他人の視線が届かない家の中に、親に対する抑止力はない。子どもの「反抗的な返事」は、ただの口実だ。しかし、親の側に問題がある可能性を考えるには、就学前の子どもは幼すぎる。幼い子どもにとっての親は、水・食べ物・衣服・寝具など、自分の生存と生活のすべてを握っている「絶対神」のようなものでもある。

 虐待を受けている子どもの心の中には、「虐待され続ける毎日から逃れたい」という当然の思いがあるのと同時に、「両親に愛されたい」「両親に見放されたら生きていけない」という思いも、毎日を過ごしている場そのものへの愛着もあるものだ。

 目黒区で虐待死した女児は、香川県で一時保護されていたとき、心理士に「パパ、ママいらん」と語る一方で、「おもちゃもあるし、家に帰りたい」と語っていたという。私はそこから「愛用のおもちゃがある慣れ親しんだ家で、安心して暮らしたい。その家に、パパとママは不要。なぜなら、パパとママがいるところに自分の安心はないから」という女児の思考を読み取る。

 女児はすでに、「慣れ親しんだ家に、自分にとって安全な存在になったパパとママがいて一緒に暮らせたら、きっと幸せだろう」という期待を捨てていた。もしも、そういう期待を少しでも抱いていたら、「パパとママに優しくなってほしい」といった内容を語るはずだ。しかし女児は、一時保護所で見知らぬ大人にケアされる日々の中で、パパとママがいない暮らしを望んでいたのだ。