千葉雅也は、一例として、富士山を、同時にAとBが見ている場面を挙げる。本質主義によれば、富士山が唯一の実在であり、AとBは異なる見方で富士山を見ているが、AとBそれぞれの視点における富士山は単に視点の相違にすぎず、実在的ではない。これを自然科学の立場から言えば、富士山の実在は物質的・数理的に説明され、それだけが真である。これに対して、相対主義によれば、我々は常に何らかの視点から見た、主観的な構築としての富士山しか知ることができず、実在的な富士山にはアクセスできない。

半世紀にもわたってくすぶり続けてきた
哲学上の難問に挑んだのがガブリエル

 ポストモダニズム以後、こうした対立が解決できないまま残され、特に人文学においては、科学的世界像も含め、「あらゆるものは幻想である」という相対主義的傾向が強まり、それへの批判が繰り返し行われてきた。

 こうした半世紀にもわたってくすぶり続けてきた哲学上の難問に挑んだのがガブリエルであり、それが故に彼の発言が今最も注目されているのである。

 ガブリエルによれば、AとBそれぞれの視点における富士山があるのは確かだが、物事の実在はそもそも特定の「意味の場」と切り離すことはできず、それは単なる主観的な構築ではなく、それぞれが実在的である。そして、富士山とは、諸々の実在的な見方の交差のことであり、「意味の場」から独立した富士山「自体」は考えようもない。

 ここで、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』で言うところの「世界は存在しない」の意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合を意味するのだとすれば、実在的視点は際限なく増加するから、そのような包括はできないということである。

 ガブリエルの新実在論は、「存在する」ということを「意味の場に現象する」ことととらえているという意味で、新しい実在論ということができる。他方で、こうした無限の意味の場をすべて包摂する意味の場(世界)は存在しないという意味で、無世界観を唱えているのである。

 見方は様々だという相対主義だけならまだ「認識論(epistemology)」の内側にとどまるが、ガブリエルはこのように、「存在論(ontology)」にまで相対化を徹底しているのである。こうしてガブリエルは、特定の意味の場を特権化し、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だとする、世の中で広く支持されている科学主義の立場にNOを突きつける。非科学的な実在性も、ファンタジー的な実在性もあるというのである。