権勢を振るった
「塩路天皇」と呼ばれた人物

 日産という企業の体質――。

 これについて、日産自動車を70年代から長くウオッチしてきた筆者としては、ゴーン政権前の旧日産で思い浮かぶある人物がいる。

 それは、かつて「労働組合トップ」として異常なまでの権勢を振るった「塩路一郎日産労連会長」である。

 彼は日産社内で「塩路天皇」と言われ、畏怖されていた人物だ。

 その理由は明らかで、1960年代から1980年代の半ばまで20年以上にわたって労働組合のトップでありながら、日産の人事や重要な経営判断にまで強く関与したからだ。

 象徴的なのは、日産が英国工場進出を決めた際、当時の塩路日産労連会長が進出反対の記者会見を行って「強行したら生産ラインを止める」とまで言い切った。また、社内の人事異動では、塩路労連会長に挨拶(あいさつ)に伺うのが常となるほどだった。

 いかに彼が当時の日産において権勢を奮っていたかを示すエピソードである。

 一方、彼は「労働貴族」と呼ばれるほどの豪勢な私生活を送っていたが、誰も文句を言えない状態だった。

 品川に豪邸を構えて日産の高級車を乗り回し、自家用ヨットを所有し、銀座のクラブで豪遊する派手な私生活は、「金の出どころはどこにあるのか」といわれるほどであった。だが「労働貴族」と言われても本人は気にせず、むしろ自負するほどだった。

 時の中曽根政権にも深く関わるほどの勢いだった。

 塩路一郎氏は、1961年に日産労組組合長となり、時の川又克二社長と労使協調路線で蜜月関係となり重用された。62年に、日産グループ全体の日産労連会長、72年には自動車産業全体を仕切る自動車総連を結成して会長となった。

 当時、日本興業銀行出身の川又克二氏は「日産の中興の祖」と呼ばれ、非常に大きな権力を持っていた。塩路氏は、その権力をバックに日本の労働組合のトップにのし上がったと言われている。