検察側の専門家は「被告人のDNAが被害者女性(A子さん)のものより100倍以上多く含まれていたから」と証言した。さらに、「DNA量は1.612ナノグラム/マイクロリットル」とされ、検察は主にこの「DNA量が多いこと(*2)が男性外科医のわいせつ行為につながる」として起訴に至っている。

 刑事事件における「DNA型鑑定」とは、人のDNA全てではなく、病気になっても変化しない個人差が大きい部分を用いて、血液型のように型として判定する。その精度はおよそ10の20乗分の1、つまり1垓(がい、京の次の単位)まで識別でき、「一卵性双生児でなければ、地球上に同じDNA型の人は見つからないレベル」といわれている(*3)。ニュースでもよく「被害者に付着していたDNA型判定が加害者のものと一致した」と犯人特定の決め手のように伝えている。

 だが、医師が診察する場合、診察室で裸の女性の前であれこれ説明したり、体を触診したりするため、女性の体から医師の唾液や皮膚の組織のDNAが抽出されることはあり得る。

 また、筆者が取材したDNA型鑑定のベテラン専門家によると、一般的に「犯罪の有力な証拠となり得るのは、第一に指紋、次にDNA型判定の場合には精子と血液は100%」と説明するにとどまる。

 それでは、今回のような唾液に関してはどのくらい証拠能力があるのか。

 唾液のDNAは綿棒で頬の内側を数回こすった口腔内細胞から抽出する。1つの細胞のDNA量は約6ピコグラムといわれる。だが、口腔内細胞には食べ物のカスが含まれる可能性があり、その破片からDNAが抽出されることもある。

 今回は史上初めて「DNAの量がわいせつ行為を証明するかどうか(医師が乳首をなめたかどうか)」が争点となる。が、前述の専門家は「唾液のDNA量の多さ少なさだけで有罪かどうかを判断することは難しい」と言う。

 実際、本訴訟の弁護側はもし被告人医師が乳房をなめた場合、どのくらいのDNA量が抽出できるか、大掛かりな再現実験も実施した。事件当日と時間帯・室温等をおおよそ同じ条件に設定し、病室のベッドの上で被告人医師に4人の女性の乳房をなめてもらう実験だった。

 その結果、DNA量は0.005~0.122ナノグラム/マイクロリットルと、検察側データより数値が低く、さらに、ばらつきが生じた。このほかにも起訴内容に見合う4種類の再現実験を実施したが、DNA量1.612ナノグラム/マイクロリットルという数値との関連性は見いだせなかった。

*2 DNA量が多い:株式会社キアゲンでは「抽出液10マイクロリットル当たりDNA量が0.5~1.25ナノグラム」でのPCR増幅検査を推奨している。ナノグラムとは、グラムの1000分の1=ミリグラム、ミリグラムの1000分の1=マイクログラム、マイクログラムの1000分の1=ナノグラム、つまり、10億分の1グラムを表す。*参考:『科学的証拠とこれを用いた裁判の在り方』(法曹会、2013年)

*3 「(確率を最も低く見積もった場合)4兆7000億分の1」と表現されることもある。