要するに、野党が「リスクは認めない」と激しく詰め寄ったことは、米国に守られ、食べさせてもらい、国民が日々、なにもリスクを感じずに済んだ「昭和」という奇跡の時代を死守せよという主張だといえる。一方、安倍政権・与党が「リスクなどない」と言い張ったのは、、「昭和」となにも変わらないのだと強弁することで、国民の批判を避けようとしたように思える。与野党ともに、「昭和の幻想」に囚われていたために、国会でまともに議論ができなかったのではないだろうか。

平成は「日本が普通の国になった」と捉えるべき

 しかし、与野党ともに「昭和」というリスクのない奇跡の時代の幻想に固執していても、不毛であるように思う。これからは、「昭和」は過去のものであり、さまざまなリスクの存在から目を背けることなく、政策実施にともなう「リスク」をどの程度まで許容するかということを、国会での与野党の争点とすべきではないだろうか。

 それには、昭和の日本を「素晴らしい時代」と考え、平成時代に「日本は悪くなった」という認識をあらためる必要がある。日本社会が負うことになった数々のリスクは、諸外国では普通にあることだ。新興国のような民主的な社会システムが整っていない国々だけではなく、英国やフランスのような先進国でも同じことである(第157回)。

 筆者が英国に住んでいた時、日本では感じられないリスクが多々あることで、緊張した生活を強いられた。テロの危機、治安の問題、多様性からくるさまざまな面倒など、生命にかかわるリスクは毎日だった。最初の1、2年は、「これで先進国か?」と不満を持ったものだ。だが、3年、4年と経っていくと、次第に考えが変わってきた。「先進国でもリスクはある」と思うようになった。むしろ、生命に危険を感じず、緊張感なく生活できていた日本が、世界の中で特殊なのだと気づいた。

 日本と英国、双方の生活を知る筆者の実感では、昭和が終焉し、平成という時代を経た日本が到達したところは、英国やフランス並みに、普通に緊張感を持って生活しなければならない社会になってきただけと思う。何度でも繰り返すが、米国に守られていたのは、奇跡の時代だった。「日本は悪くなった」などと、過度に悲観的になる必要はないのだ。