徹底して議論しても
必ず合意できるトヨタ社員
金太郎アメという比喩は、個性のない均質的な人間で構成されている集団という意味で使われるのだが、その意味で言うならばトヨタはまったく当たっていない。
私の実感では、トヨタほど多様な人間が集まり、多様な視点でさまざまな意見を言い合える社員集団はないのではないかとさえ思う。
問題の発見から真因の除去まで自分の頭でトコトン考える空気の中で育った人間は、「私も同じ意見です」とか「私もそう考えていた」式の“右へならえ”はしない。「同じ」ことを嫌い、自分の意見にこだわるのがトヨタ社員なのである。
では、意見の違う者同士で、部署なりチームなりの結論を導き出さなければならないときはどうするのか。
違う考え、違う価値観を遠慮なくぶつけ合って、徹底して議論するのである。
したがって、物事を決めるのに時間がかかる。時間がかかっても安易な妥協はしない。
カイゼンでは、適当なところで妥協することを嫌う。では、議論はどのようにして収束するのかというと、互いに根底のところで共有している哲学に立ち返るのである。
根本的なところで考え方の共有があるかぎり、議論がいたずらに長くなり、いつまでも収束しないということはない。
いつまでたっても議論が収まらないのは、どちらかが細部にこだわっていたり、自分の意見を頑固に主張し続けたり、あるいは問題の本質を忘れてセクト主義(派閥主義)に陥ったりしている場合などであろう。
そうならないために「カイゼン」の哲学に立ち返るのである。
ただし、そこには絶対的に必要な要素がある。
互いに議論の相手をトヨタの社員として、また一人の人間として尊重していることだ。言葉を換えれば、議論の相手方に対して揺るぎない信頼感を持っていることである。
相手方は同僚や後輩かもしれない。あるいは直属の上司だったり、他部署の上司だったり、経営陣だったりすることもあるだろう。そうした立場の違いがあっても、カイゼンの哲学を互いに共有しているという信頼感があれば、議論はより高いところで一致点を見いだし、収束できるのである。